うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

現実的理想論

まず初めに断っておきたいのだがこれからここに書く現時点での自分の意見は、およそ現在の社会道徳に反する表現を含む。また主張そのものもその生みの親として最大限贔屓目に見ても外道がいい所で、良識に則ってはいない。それでもこれをここに記すのは、将来の自分がこの視点を有耶無耶にすることを避けるためである。

 

毎年8月になると日本では原爆関連の話題が語られる。まぁ唯一核攻撃を受けた国としてはさほど驚くこともない。その中にこんなニュースがある。「今年も世界の核兵器廃絶を目指してうんぬんかんぬん……」自分はこのニュースに対して、子供の頃から言いようのない違和感を覚えていた。そして年齢的には大人になり、精神的にはその責任の巨大さを受け止め切れないなりに向き合うようになった今、この違和感を言葉にすることができるようになった。

 

つまり違和感の正体とはこういうものであった。「核兵器の廃絶」を「目的」とするのは、根本的にズレている。この一言に尽きる。「核なき世界を目指して」とかっていう言葉が空虚か或いは不真面目にしか聞こえないのは、それが達成し得ないか達成する気がないようにしか見えないからだった。

 

ここで明言しておきたいのだが、自分は核兵器が無くなることはないと思っているわけではない。訳知り顔でこの世には必要悪というものがあるなどとほざき、循環論法じみた軽い言葉を記すつもりではない。将来の自分におかれては、これを念頭に置いて読み進めて欲しい。

 

それでは。「核兵器の廃絶」を「目標」とするとはどういうことだろうか。それは核兵器のない状態を目指すということだ。

 

それでは、核兵器とは何か?道具だ。規模の大小こそあれ、原始の分裂反応なりなんなりを用いてエネルギーをぶちまける道具にすぎない。そして、ある道具が「ない」という状態は、少なくとも3種類考えられる。

 

一つは「生まれていない状態」。つまり、その道具が生まれる前の状態と言える。これ以前の世界がこれ以前の世界として成立していたことこそ、あらゆる道具について「ない」という状態を生むこと自体は可能だと考える根拠である。

 

二つ目は「更新された状態」。つまり、その道具を上回る道具が生まれた後の状態である。

 

三つ目は「不要となった状態」。つまり、その道具の用途が生じなくなった状態である。

 

一つ目は悲しいかな、想定するのは無意味だ。時間を超えて、つまり光速を超えて運動することは不可能だとしたのは皮肉にも原爆の開発を推進したアインシュタインの野郎が__自分はアインシュタインが嫌いなのでこう書くが__確かめてしまった。らしい。自分は物理学には明るくないから詳しいことは分からないが、少なくともタイムマシンは実用されていない。

 

それでは二つ目と三つ目はどうだろうか。これらは今からでも至り得る状態である。しかしここで大切なことなのだが、この二つの状態は決定的にその経緯が異なるということを理解しなければならない。「更新」は目標としうるが、「不要」はより大きな状態による結果に過ぎないということだ。

 

例え話をしよう。くわという道具がある。畑を耕すのに使う、斧みたいな形のアレだ。くわという道具は、今ほとんどないと言っていい。なぜならくわは二つ目と三つ目の状態に至っているからだ。

 

機械化を進め、農村をもっと楽にしよう!というモチベーションが耕運機を生み出し、くわは「更新」された。より優れた道具の発明により、くわはなくなった。

 

高度経済成長期を通して日本全体が第三次産業に従事するようになったため、結果としてくわは「不要」となった。状況の変化により、くわはなくなった。

 

このことからも分かるように道具は「更新」か「不要」によってなくなり、これらはそれぞれ「目的」とされることと「結果」とされることに結びついている。そして自分はこの関係はまさしく必要十分な関係にあると考える。つまり無くすことを「目的」とするなら手段は「更新」しかなく、無くすことを「結果」とするなら、それを「不要」とする状況によってのみ為されると考えられるという事だ。

 

この考え方を踏まえて、核なき世界とかいう話に戻る。これが言葉の通りに核兵器のない世界を目指しているなら、その手段は自明に「更新」以外ありえない。つまりより強力で、それでいて威力を絞ることも可能で、サイズや費用に対する効果が高く、後から自国の陸軍を進撃させても問題ないほどクリーンで、或いは制御可能な破滅的結果を長期にわたってもたらせる……などなんらかの点で既存の核を上回る兵器の開発である。例えばより高性能な爆弾や、サイバー空間での戦争がこれに当たるだろうか?これにより、人類はより効率良く破滅への道を進む事ができるだろう。

 

しかしこれは理屈というよりは嫌味の範疇にある妄言で、実際に核なき世界を唱える方々がより破滅的な世界を求めているわけではないことは自明である。つまり、「結果」としての核廃絶をご所望というわけだ。ではそういう結果を生むために戦争を不要とする状況を作っているだろうか?残念ながら祈った所で核物質の半減期は早まらないし、署名を集めても国家間の安全保障関係のこじれを治めるには不足だ。核保有国でなく、また核抑止の恩恵に預かっている日本が核兵器禁止条約に批准して何になるのだろうか?唯一の被爆国として世界にアピールできる?そのアピールがどのような展開を経て核兵器の廃絶につながるのか、誰か具体的な道筋は見えているのだろうか?自分にはその道筋は見えない。自分には道中を考慮せずに瞬間移動するつもりでいるかのように思える。よしんば日本が批准したとしても、それはそのために長年苦労を重ねた、心優しく、素晴らしい方々の心が満足感で満たされるというだけの話ではないだろうか?

 

つまりそれが、自分の抱いていた違和感の正体であった。「目的」とするなら、かつより破滅的な状況を望まないならそれは不可能である。あるいは「結果」とするなら、かつ現在の結果に結びつかないアプローチを取るならそれは不真面目である。これが子供の自分が感じ、大人に至るまで解消されなかった八月の悩みであった。

 

ところで、世間で常識とされているものに難癖をつけるだけでは卑怯者の誹りを免れ得ないと自分でも思うので、自分なりに核廃絶という結果にたどり着くための道筋を探っていこうと思う。

 

こういう時は結果から逆算するのが宜しい、と経験則的に知っているのでまず核兵器が無くなる状態を考えてみる。それは大国間の戦争がなくなった状態である。非対称戦争において、つまりテロとの戦いにおいて核兵器の使用がまるで効果を期待されないのは9.11以来の米軍の戦いで使われなかった事を振り返れば分かる。核兵器というのは、自分たちと同等かそれ以上の一定の規模を持つ相手に対してでないと有効とは言えない。裏を返せば、そういった相手と対決する機会がないと見込まれれば、費用の嵩む兵器を維持する理由は無くなるだろう。では大国間の戦争がなくなるという状況はどのように生まれるだろう。ここで前提としたいのが、いわゆるトゥキディデスの罠と呼ばれる考え方である。これは既存の覇権国家と新興の反覇権国家は互いが望まざるとしても軍事的衝突に陥る傾向が強いという考え方であり、現代に換言すればアメリカと中国がこれらにあたる。つまり、大国というものは二つ以上あると必ずそのうちどこかで戦争になるのだ。仮にアメリカと中国が戦争を回避しても、次なる新興大国インドとの間に戦争にならない保証はない。失敗する余地があるなら失敗する。そして国家には失敗に備える義務があり、その為には核兵器を手放す判断はありえないだろう。国家に永遠の友などおらず、あるのはただ永遠の国益のみなのだ。つまり、大国間の戦争を避けるには大国と呼ぶに値する国家が1つしかない状況か、1つもない状況の2択だ。

 

脊髄反射で「ありえない」と叫ぶ本能を理性で抑え、あくまでも実現の可能性を探りたい。大国が一つもない状況とはなんだろうか。これは人類文明が滅んだ状況と言い換えて差し支えないと思う。何故なら大国というものは絶対的優位ではなく比較的優位に基づいて定義されるからだ。例えば現代の大国であるアメリカや中国が小さく分裂したとしても、繰り上がりで日本やドイツの立場が強くなるだけだ。これを何度繰り返したところで次から次へと繰り上がっていくだけで、最終的には国家というシステムそのものが解体され個人だけが残るだろう。まさに個人の個人による個人のための闘争の時代の訪れである。無論ある程度小さくちぎったところで核保有などできなくなるが、そうなれば集合してまた大きくなろうとするだろう。それを避けるには集団の否定しかない。それは文明の否定だ。つまり、核兵器と一緒に人類も滅ぶシナリオである。

 

では大国が一つしかない状況はどうか。これはつまり、事実上の世界統一である。世界征服と言い換えても良い。一つの大国と束になってかかってもそれに敵わない小国の集まりというある種の安定した世界であれば、まぁしばらくは核兵器の出番は生まれないだろう。そうなれば嵩む費用に署名やら民意といった後押しを与えてやる事で廃絶も叶う……と思える。

 

だがここで大きな問題がある。大変残念なことに、現在大国は一つではないということだ。つまり大国を減らさなければならない。お恥ずかしながら私の想像力ではここが限度だった。より正確に言うなら、血を流してこれを成し遂げうる選択肢とこの状況を生み出しうる不確かな選択肢は思い浮かんだが、前者は戦争を手段としている時点で破綻しているし後者は不確実性が高すぎる。よってこれを読む未来の自分におかれては、これからここに述べる選択肢を念頭に置きつつ多くの人の知恵を借りることでいつか回答を見出してほしい。結局無責任な卑怯者であることに変わりはないが、冒頭でも述べた通り人間というのは生まれた時からこの地球とそこにこれから生きる全ての人間に責任を負っているのだから、それを投げ出すことのないように願う。

 

血を流す選択肢というのは、共通の敵を用意する選択肢である。既に2回、国際連盟国際連合という形で失敗したアイディアであるが、まだ成功の目がないと証明されたわけではないと信じる。戦後処理の運び方次第で一つの大国の元に安定を作る事は可能な筈だ。理想的には宇宙人との戦争になるのが1番だが……そこまで地球人の尻拭いに付き合ってくれるとも思えないから、これは上手く人類の中で「人類の敵」を生み出す他ない。だが前述した通り、戦争を手段として肯定する事は誤りだ。これを肯定すれば、それこそ「人類の敵」だろう。

 

不確かな選択肢というのは、国家とは異なるシステムによる世界の二重統治である。現実的には企業がこれにあたるだろう。かつてウォール街の実業家が国際連盟という安定への枠組みをご破算にしたように、経済には安全保障の論理に対抗しうる強度がある。現代で言うところのGAFAなどは既に国家のシステムに依らない独自の法を敷き始めている。これの成長次第では既存の大国を全て比較劣位におく経済主体へとして唯一の大国となりうる可能性はあるだろう。だが前述した通り、あまりにも不確かだ。毒と薬ではないが、用法を間違えればただ戦争を煽るだけの可能性もあり得る。むしろ歴史を振り返ればそういった例ばかりが目につく。過去にそうであったからといって諦める理由にはならないが、不確かである事だけは確かだ。

 

これにておしまいである。人が1人でできることには限界がある事をよくない形で証明するような結果になったが、人と人の間であれば、人間であればまた違った結論が導けると信じられる。