うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

最近のあれやこれや

ここは未来の自分が振り返って「ああ、この時はこんなふうに考えていたんだなぁ」と思うための場なので、普段Twitterなどでは他者のために書かない話も書く。つまり、読んでてうへぇってなる話だ。

 

遠く我が故郷の一つ東京では、オリンピックに人々が熱を上げている。とはいえ残念ながらその熱は一つの方向に収束してはいない。みなさんあれやこれやと騒いでいて楽しそうで何よりだと思うが、半ば以上他人事な身としてはいろんなことを思う。

 

まずやるべき理由を考えてみよう。経済的利益?まぁそれはある。ただ専門分野でなく試算もできないのでなんとも言えない。個人的にはどんなに高く損失を見積もってもせいぜい人が死ぬくらいで、社会に対する致命的損失とはならないんじゃないかなぁと思う。

 

最も声高に叫ばれる経済は置いといて、自分が重要視するのは政治的な面だ。ベルリンやモスクワの例からも明らかなように、オリンピックというのは政治的でない、非常に政治的なイベントである。曲がりなりにも世界中の視線を集めて行う一大イベントが、政治的でないはずがあるだろうか?そこで今回の東京オリンピックを考えてみると、これまた大きな政治的意味がある。ここで大事になるのは、次の冬季オリンピックが北京で開催されることだ。

 

はぁ!?何言ってんのお前!?と使い古された画像でツッコミたくなる気持ちは分かるが言いたいことはつまり、コロナ禍が始まって以来初の世界的イベントを開き全世界に向けて「立ち直った!」と宣言する機会を中国に渡したくないということだ。ここでは本筋から逸れるから詳しく書かないが、中国はコロナ禍において麻痺する西側国家を尻目に対外的にやりたい放題してきた。ここで更に中国でオリンピックを開かれては、「アメリカをはじめとした西側はまだ狼狽えているが、我々は立ち直った!」と宣言させるようなものだ。現在一帯一路と開かれたインド太平洋の2構想の間で勢力争いをしているタイミングで、これ以上向こうに付く国が増える機会は増やしたくない。それよりは西側陣営国家の都市東京でこちらの強さをアピールしたいところだ。

 

ここまで読んだ方はこう思うのではないか。「そんな事のために人の命を危険に晒すのか」と。「そんなもんはクソだ」と。そう、全くもってその通り。自分も個人としては同意見である。祖父母や友人が東京にいる身としては、彼らがコロナに感染することはもちろん、感染者が医療の現場を圧迫することで不慮の事故や突発的な病気に対して対応できなくなるのは許容しかねるリスクだ。

 

だが同時に理解もできる。個人ではなく社会として見れば、この政治的理由は十分な重みを持つ。結局のところ民主主義と資本主義、そして何より自由を長期的に獲得し続ける為にはこれは必要な措置であると理解できる。これを読む人には、そういった視点にも理屈があるということを知ってほしい。

 

それでは次にやらない理由を考えてみよう。これは明白だ。感染者が増える。まぁその……そらそうだ。これは増える。間違いない。だから考えるべきなのは、許容し得るリスクか?という事だろう。

 

人流が増えればリスクは増える。人が1人街に出れば全体としてのリスクは高まる。これは当たり前だ。しかし10000人出ている街に1人出るのと、10000人出るのでは意味が変わってくる。つまり、感染ペースに有意な影響を与える人流でなければ過度に問題視しなくていい。

 

これまた数字を調べていない思いつきの話なのだが、オリンピックで予想される人流は通勤や物流などで現在動いている人流に比べてどの程度の規模なのだろうか。もう1年以上東京に行っていないから分からないが、例えば記憶の中の満員電車ほどの人が日々行き来しているのなら、正直大会関係者が多少行動した程度では大きな影響にはならないように思える。

 

ついついやる側に肩入れしてしまった。というのもTwitterではやらない派の声が大きいが、常々あらゆる思想には反対側に等質等量のアンチテーゼが存在すると思えと銀河英雄伝説に教えられた身なので、じゃあ反対の立場の主張はどうだろうかというところに目がいってしまうのだ。これは個人の意見とは関係がない、謂わば習性だ。

 

しかしこんな議論をしているうちに開催まで秒読みになってしまった。今から中止されるとしたら戦争でも始まるくらいしかないだろう。ここでよく見かけるのが「オリンピックを成功させて云々……」という言説である。

 

さて、オリンピックの成功とは何だろうか。これは外向けと内向けの二つの意味があるように思われる。外向けは前述した政治的意図だ。この外向きの成功に必要なものというのは、実はかなりハードルが低い。オリンピックをやればいいのだ。オリンピックを開催し、開催したものはいつか終わるので閉会すれば良い。その間何人の感染者が出たらミッション失敗!とかそういうのはないので、やれば勝ちだ。それこそ戦争が起きるとか、選手村で感染が爆発してラクーンシティみたいになるとかしない限り大会自体はつつがなく終了するだろう。

 

そこで問題になるのが内向けの成功だ。これはつまり何を意味し、何を必要とするのだろうか?感染者の数?費用対効果?ノンノン、そんなわけがない。もっと単純な、もっと大衆向けの話だ。

 

メダルだ。

日本人がいくつメダルを、特に金メダルを取るか。これが全てだ。これをもってトップニュースとSNSのトレンドを埋め尽くし、感動と共感と分かりやすいストーリーで情緒を揺さぶれるか。これが全てだ。大衆(この呼び方は貴族主義的な差別を含んでおり民主主義にそぐわないが、実感に近いのも事実だ)は感染者が何百人出たとか、そんな桁数の多い数字は理解できない。感染が広がると経済が、とかそんな難しい話に興味は示さない。一桁か二桁の金色。これが全てだ。これを連日連夜休む事なく叩きつけることにより、大会期間が終了した頃には「なんだかんだやってよかったね、たのしかったね」という世論を形成しうる。これがオリンピックの成功である。

 

つまり大変無責任なことに、アスリートの双肩に全てかかっているのである。この場合無責任であるのはもちろん国家の主権者たる私たち全員である。酷い話だが、そんなつもりじゃなかったと喚いても責任というのは自由とワンセットで常に私たちと共にあるので、少なくとも選挙権のある人は粛々と受け入れよう。重すぎる責任に向かい合う覚悟がお手元にない場合は、1億2千万で割り算して気持ちを軽くするといい。そうすれば晴れて大衆の仲間入りだ。

 

そういえば、成功しなかった場合はどうなるのだろうか。特に内向けに。この場合感染拡大がクローズアップされ、経済は打撃を受け、政府の支持率は低下し、秋の衆議院選挙では自民党が大きく議席を減らすだろう。政権は大きく揺らぐか、或いは交代するかもしれない。個人的には開かれたインド太平洋構想一点のみに絞っても十分な功績を挙げており、しのごの言ってもコロナの死者は「たったの」15000人ほどである事を踏まえると、短絡的に政権を変える事にはかなり疑問符がつく。変えて良くなる目処が立つわけじゃなし、博打に張るには国家の命運は重すぎる。

 

なんだかんだ色々と述べてきたがこれを読んだ誰か、まぁ未来の自分がどう思うかが全てだ。一つ言うことがあるとすれば、クライミングは面白いから観戦してほしい。感染じゃなくてね。