うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

先輩のブログを読んで。

まずはこのブログを読んで来ていただきたい。

 

https://note.mu/shimakzk/n/n23bdd93cf8eb

 

知らない方のために説明しておくと、このブログの著書は私の高校時代の部活の先輩だ。2つ上に当たる先輩なので高校時代はほぼ接点が無かったが、大学生になってからは先輩のブログはほぼ全て読ませていただいている。いつも楽しみにしてます。

 

今回は私がこのブログを読んで思った事を吐露するだけの内容になると思われる。恐らく内容は概ね焼き直しになる上に、私の文章は稚拙かつ「拙速は巧遅に勝る」などと嘯いて推敲を怠る怠け者ゆえ見苦しいところも多いと思うが、どうかご海容願いたい。

 

さて、本題に入ろう。

思えば、世に言うところの文学と言われる「こころ」を読んだのは随分と前になってしまった。確か当時の私は「Kは「過去の自分が積み上げてきた信念(=精神的向上心)」と「現在の自分が抱く恋愛感情」の矛盾に耐えられなくなって自殺した自己中心的精神虚弱者」であり(その時の私はその矛盾に苦しむ事を惰弱と一蹴できる程精神が強靭だったようだ。今ならもう少し同情できる。)、「先生は今で言う所の同性愛者に近く、死ぬ事で自身の中で永遠になってしまったKと同じく、私の中で永遠になる事を狙って見せつけるように自殺した人間」であり、その後その連鎖に私が飲み込まれるのか断ち切るのかを読者の判断に委ねる為にあえて「私」と描写している…とか解釈していた気がする。何らかの形で残していなかったことが悔やまれる。もし夏目漱石が現代に生きてたらこころは小説じゃなくてノベルゲームとして発行していたんじゃないか…と思った事しか鮮明に覚えてない…。

 

そういえば、先輩が言う所の文学イキリを初めてしたのは中学で高瀬舟を読んだ時だろうか。病床の自分の存在が兄の重荷になっていると考えた弟は、あえて死の寸前に兄が帰ってきてその罪が兄に被るよう仕向け、罪人としてある程度保証された生活を送ろうとしたのでは…とかそんな深読みをした覚えがある。しかし、こころや高瀬舟くらいしか文学を読んでいないのも確かだ。だってスマホで安易な悦楽に浸る方が楽だもんね。

 

では、私は普段文学イキリをしていないのか?私はこれを明確に否定する。別に文学読まなくても文学イキリはしてるんや!

 

例えばマンガだ。

僕のヒーローアカデミアという週刊少年ジャンプで連載中の作品がある。私はヒロアカをNARUTOの存在を念頭に置きながら読む事で先輩の言うところの文学イキリをしているつもりだ。無個性だったデクと常に1番だったカッちゃんは、落ちこぼれだったナルトと優秀なサスケに符合するし、

「誰より身近な勝利の権化」としてカッちゃんを意識するデクと「見下していたのに追いつかれ追い抜かれるような焦りをデクに対して覚えるカッちゃんは、「お前と勝負して勝ちてーんだ」と言い続けたナルトであり、口寄せの術、我愛羅戦、螺旋丸とナルトの成長に焦ったサスケと被るし、

林間学校でカッちゃんがヴィランに連れ去られるのは、中忍試験で大蛇丸と出会うことだし、

オールマイトとオールフォーワンが半ば相打ちに近い形で決着するのは、三代目火影大蛇丸の戦いに似ているし、

互いの本音をぶつけ合ってデクとかっちゃんが戦う舞台がビルの「谷」間なのは、ナルトとサスケの少年編最後の戦いが終末の「谷」と呼ばれる土地だったことのように思える。あとあとエトセトラ。

 

一応言っておくが、ヒロアカはNARUTOのパクリだと言いたいわけでは無い。あくまで、私がそう解釈してイキっているだけだ。そんな誤解する人いないと思うけど一応、一応ね。

 

他にも沢山のマンガで様々な、所謂文学的解釈をしているつもりだ。文学的解釈と言うと硬いが、本質的に行う事は文学でもそうでない書籍でも同じなのではないだろうか。だって所詮イキリだし。

 

いや、書籍だけではないだろう。

例えばアニメだ。機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズという作品がある。これにマクギリス・ファリドガエリオ・ボードウィンという名門生まれの2人の青年が出てくる。彼らは物語開始当初は親友として出てくるが、シナリオ前半でマクギリスは己の野望のためガエリオを手にかける(死んでなかったけど)。そして終盤、再び宇宙で対峙した2人は互いの死力を尽くした戦いに挑む。死闘の果て、勝ったのはガエリオだった。死の間際、その心中を吐露するマクギリス。実は彼は名門の生まれなどではなく、貧困街の人間だった。誰もが貧しい世界で育ったマクギリスは「世界は暴力で成り立っている」と理解した。後にその美貌から男娼として買われ、養子にまでなった後もそれは変わらなかった。ただ暴力の形が拳から権力に変わっただけのこと。そんな世界に復讐を誓ったマクギリスが選んだ手段も当然暴力だった。しかし、ガエリオや他の幼馴染との日々がその決意を揺らがせる。かつての信念か、今の安らぎか。その矛盾から目を逸らしてここまで来たと。ガエリオ、お前は私の唯一の…。

しかし、そこでガエリオはマクギリスの言葉を遮った。もしその言葉の続きが俺の予想通りなら、俺はお前を許してしまうかもしれない。目を逸らして来たのはガエリオも同じ事。そして遂にマクギリスは事切れた。後には無重力空間の静寂に、2人の拳銃がぶつかった音が響くのみ。それはまるで誓いの金打のように…。

 

ここまで読んでくれた聡明な読者の皆様はもうお気づきだろうが、これは私にとって先ほど申し上げた「こころ」のオマージュと言える。後日談でガエリオは元の明るい性格に戻りつつあり、いわば「過剰に重く受け止めなかった先生」に当たる。それでいて、ガンダム的に言えばこの2人はシャア・アズナブルガルマ・ザビのオマージュとも言える。このように過去の例を持ち出して考察する事はきっと文学的解釈と言えるし、それをこうしてブログにドヤ顔で書く事はまさにイキリである。

 

いや、もはや文学、マンガ、アニメといった事だけではないかもしれない。例えばリンゴが地面に落ちるのを人類で初めて見たのはニュートンではないだろうが、そこに意味を見出したのは彼だ。蛇が自分のしっぽを咥えて輪になるイメージは古来からあったが、そこにベンゼン環の構造を見出したのはケクレだ。このように、物事はただそこに在るだけでは意味をなさない。世界のあらゆるものは個々人の主観による認識解釈により意味を与えられ、それらが共有される事で共通認識により価値を与えられる。人間が文学的解釈をする事で意味が生まれ、文学イキリをする事で価値が生まれたと言えないだろうか。過剰な拡大かもしれないが、まぁここは所詮私個人のイキリということで1つ。

 

と、こんな感じのことを思っていた。凡人の分際でカッコつけていうならば、やはり世界を面白くするのは自分自身なのだろう。

 

追伸

先輩のブログの中で出てきた「ボケ・突っ込み二元論」だが、寧ろ自分は東京に出て世界が二分されていない事に驚いた。ボケる事、ボケに対し、「しかし」と突っ込む事は社会性動物人類の絶対の義務では無いらしい。ボケ・ツッコミ共に当たり前過ぎず、然りとて意味不明すぎない距離感(自分はこれをハピタブルゾーンと呼んでいる。本来は恒星から適度に離れていて、水が液体で存在できる範囲を指す言葉だったはず)を保ちつつ生きるスリリングな日常は人によってはハマると思う。ぜひ大阪へ。