うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

2について。

実はこのタイトルでブログ書き始めるのは2度目です。1度目は終盤まで書いてから、「つまんねぇなこれ…」となったのでやめました。

 

さて、2です。昨日は1についての話の中で、0と1には、つまり「無」と「有」には違いがあるよね〜みたいな話をさらっとしました。しかし、現実では有る・無いという対立よりAである・Bであるという並立の構造もまた多いです。

 

不思議なことに、人間の周囲には対になって現れるものが多いです。

例えば太極図。太極は両儀を生じ、両儀四象を生じ、四象八卦を生ずと言うアレです。…ピンときませんか?日向ネジ八卦六十四掌する時に足元に出るアレです。魔理沙八卦炉の真ん中に書かれてるアレです。小学生の男の子が大好きな白と黒の勾玉が合わさっているようなアレです。

あの太極図は太極という全ての始まりから陰と陽の二つに分かれた、という事を示しています。これらは対になっているという事ですね。

 

そもそも、人間自身も対の多い生き物です。目、耳、腕、足、肺に腎臓に右脳と左脳。一つしかない器官を除けば、そのほとんどが対を成しています。

 

さらに、歴史も二つに割れる事が多いです。例えば東西冷戦は資本主義と共産主義の二つに世界が分かれました。関ヶ原の戦いも日本を東西に分かれましたし、アメリカでは南北戦争という形で争いました。

 

こうして考えると、人間は物事を二つに分けるのが好きなのかもしれませんね。私と貴方、味方と敵。何もかも二つに分類してしまおうというのは、その善悪はともかくとして人間の癖なのかもしれません。あっ、善悪もそうですね。

 

しかし、悲しい事に人間は二つに分けるのと同じくらい、2つに優劣を付けるのが好きです。先ほどの歴史の例を省みるまでもありません。機動戦士ガンダムUCのセリフを借りれば「出自の違うシステムは互いを認められない」というやつですが、主義主張に限らず「対」は元来並列でありながらそれを良しとしない性質を持ちます。

資本主義と共産主義

資本家と労働者。

白人と有色人種。

先進国と発展途上国

男性と女性。

人間は、その多くが「自分と違う」存在に嫌悪感を抱く不寛容な生物なのかもしれません。

 

しかし、それは人間が地球上の頂点、すなわち霊長であるが故の傲慢な矛盾なのではないでしょうか。独りでは居たくない。みんなの中の誰かでいたい。でも、本当の意味でみんなが同じでは耐えられない。俺たちとお前らは違うんだ。それらはあくまで人間の内輪揉めに過ぎません。もし、人間全てを合計してようやく釣り合う他者が現れたら?

 

それが宇宙人であるか、それともAIであるか、はたまた明確に進歩を遂げ、次のステージに進んだ人類自身かは分かりません。しかし、さながらビックバンにより無数に広がった物質が一塊の惑星になるように、無数の対が1つになる日が来るとしたらそれはとても面白そうですね。

 

そんな事を考えた1日でした。