うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

半年毎にしか書かないのに日記を名乗っていいのか

常に「明日も書けば日刊」という可能性を内包しているのでどう見ても日記ですね間違いない。

 

というわけで久し振りに日記というものをしてみんとてするなり。こうして日記をつけていた時期の方が頭が良く回るので、長期休みの間くらい頑張ってみましょう。

 

とは言っても、元々ネット上で猫を被って現実で喚く、いわば逆ネット弁慶なのでここで話す強い話題とか悩みとか無いんですよね。そもそも自分の中で片を付けられない悩みなんてもう存在しないし…。

 

いや、そもそもです。そもそもネットはみんなの楽しいを見せびらかす場所でもいいのでは…?別に全部がメンタルヘルス板って訳でもないし。

では今日はポケモンの話をしましょう。他にも楽しい事は沢山ありますが、それはそれ、おいおいと。

 

ポケモン!知らない人は居ないでしょう!やった事ない人は少しは居るかな?でも大人になってもやっている人はそんなに居ないか…。自分はそんな大人の1人です。ポケモンというと子供向けゲームといった感がありますよね?分かります。事実、小学生から楽しめるゲームです。ですが、小学生しか楽しめないゲームではありません。そう!大人には大人の楽しみ方があるのです!それは!

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かわいいですね。あ、自分です。

そう!トレーナーの着せ替えです!え?「これのどこが大人の楽しみ方なんだ!さっさとパーティ構築論とかの話をしてくれよ!」?…な〜に言ったんだおめぇ、そんな小難しい話誰が聞きてぇんだよ。というか、これが大人の楽しみ方というのは嘘でも誇張でもありません。思い出して下さい。特に男性。みんなで集まってポケモンやってた時に、女の子主人公選んでた奴が何言われてたか。「え〜お前主人公オンナやん!きっも〜!」「へんたいやん!」とか言われていたでしょう!?間違いなく!ちげぇし!そんなんじゃねぇし!と言った君ももう大人です!自由です!

 

というわけで、「男性がポケモンで女の子主人公を選ぶ」のは大人の楽しみなんですね。

そこで本題に入りましょう。f:id:usanikki3594:20200207163825j:imagef:id:usanikki3594:20200207165844j:image

かわいいですね。

これは私が初めて作ったアバターです。元のモデルと服がいいので、オタクくんの壊滅的ファッションセンスでも見れるものになっている…と信じています。なってろ。ちなみに同じ大学の知り合い(悪い意味で典型的理系)は今時小学校低学年でも着てなさそうなパステルカラーのふりっふりのやつを着せてましたし、同じく大学の別の知り合い(彼女が居る)はライダースーツに身を包んだカッコいい女性でした。そういうとこやぞ。

 

このアバターなんですが、一枚目の画像のようにリーグカードと呼ばれる名刺のようなものにも反映されます。リーグカードは主人公だけでなく、背景の画像や主人公などの表情など様々な要素を弄ることができますが、自分もオタクくんの端くれ。ここまで弄れるならやる事は一つ!

 

ストーリーの妄想ですね〜〜〜!!!

 

キャラクターある所に物語あり。表情一つで物語は変わって見えるのです。そこで自分のリーグカードのストーリーですが…

「大学のサークルの飲み会の一次会が終わったタイミングで抜け出して、家の最寄りの駅から2人で笑い合って帰る大学一年の女の子」です。…ポケモンの世界に大学があるかは知りません。女の子が左手側に笑いかけている事からも明らかなように、右側のスペースにもう1人いることを是非イメージして欲しいですね。横にいるのは貴方?それとも知らない誰か?男性なのか女性なのか?同い年なのか先輩なのか?それは貴方の想像次第です。自分が定めた正解はありません。貴方の答えが正解なのです。

 

あ!ただし明言しておくことが一つ!正解はありませんが間違いはあります!「これ横におんのお前なんやろ〜?wこういう女の子と付き合いたいんやろ〜?」的なやつです!違うんだよなぁ…。そういうことじゃないんだよ…。かわいいとは思ってるけどさ、自分自身だと思ってるわけでもないけどさ、でもそういう事じゃないんだよ…。分かってねぇなぁ…。はぁ〜…。(オタクくん迫真のため息)

 

今回挙げた例はあくまで一例で、いろんな楽しみ方があります。更に、これからDLCで服が追加されていくとの情報もあり、妄想のしがいがある事間違いなしです。いや〜ポケモンって楽しいですね!

放課後俺んちでデュエマやろうぜ!

6時になったら家に帰っていたあの日々は遠い過去になったけど、俺たちの心はコロコロコミックから成長してないぜ!そうだろ!?

 

いや、何もそこまで子供のままである必要はないんですが、兎も角成長すると過去の思い出が美しく見えるものです。今のこの財力があれば、いろんなカードで遊べるのにな…。でも今のカード分かんないし、一緒にやる人もいないし…。と!お思いのそこのアナタ!今年の冬からデュエマがスマホで出来るんですよ!

 

分かります分かります。アナタの不安はよーく分かります。今のカードなんて分かんないし、付いていける気がしない?しかしご心配なく!なんとこのアプリ、最初の目玉は悪魔神バロムに精霊王アルカディアスにボルメテウス・ホワイト・ドラゴン!切札勝舞や白凰なんかの時代のカードたちです!そう、これはいわば健全な大人のゲーム!「ぼくのなつやすみ」みたいなもんですよ!アレだって全年齢対象って書いてあるけど実質R-30みたいなとこありますよね!

 

というわけで、幸運にも「デュアルマスターズ プレイス」(アプリの正式名称です)のクローズドβテスターに当選したので、元経験者のアナタ向けのレポートを書いていこうかと。あと、私は本当に小学生の心を持ち続けているのでまだカードのデュエマやってます。

 

まず特徴その1!古い!

前述した通り、とにかくカードが古い!恐らく見覚えのあるカードがかなりの枚数あるはずです。中には若干の調整が加えられたカードもありますが、きっと押し入れのどこかに行ってしまったあのカード達に再び会う喜びを味わえる事でしょう。

 

次に特徴その2!遅い!

これはゲームの展開の事です。今のデュエマは試合展開の高速化が進んでおり、3ターンキルも珍しい事ではありません。信じられますか?アナタが青銅の鎧を出してマナを1つ増やしている間に、小学生はダイレクトアタックして来るんですよ?しかしこのアプリではそんな事はありません。無論速攻デッキというのは存在しますが、適切にデッキを使っていればそう易々と蹂躙される事は有りません。むしろ、デッキ次第では相手の山札がなくなって勝ち、という事も狙っていけるほどです。前述の古い!と合わせて、本来のデュエマメイン層である小学生なんぞアウトオブ眼中、おめーら大人から金を巻き上げてやるぜ!という意志がひしひしと伝わってくる、潔いまでの懐古主義ですね。

 

特徴その3!面白い!

当然今のカードの方が効果も派手、イラストも派手で刺激に満ちています。しかし、では昔のカードで行うデュエマが面白さに欠けるのかと問われれば、今のデュエマのユーザーでもある私は否と断言できます。1枚1枚のカードが生み出すアドバンテージが大きくない事は、必ずしもゲームがスリリングでない事を意味しません。むしろ、だからこそゲーム全体に緊張感が伴うとさえ言えるでしょう。

 

まぁ、ざっとこんなものでしょうか?本当はまだ書くべき事、書きたい事があるのですが、これ以上はゲームの細かい話になってカードゲーマー特有の気持ち悪い所がダダ漏れになってしまうので自粛します。それでは。

 

ここから先は君の目で確かめてみてくれ!!!

○分で「100分DE名著」

100分DE名著、というNHKで月曜22:25から放送されている番組がある。その名の通り一冊当たり一回25分×全4回で、アルプスの少女ハイジからロジェ・カイヨワ戦争論に至るまで様々なジャンルの本を読み解くという内容だ。

 

番組は伊集院光さんとアナウンサーさん、そしてそれぞれの本1冊につき1人の講師によって進行される。抜粋した本文の朗読とアニメーション、分かりやすいフリップがより内容の理解を助けてくれるようになっている。

 

…とまぁここまで番組の説明をしてきたわけだが。正直なところ、番組ホームページのリンクでも貼っておけば事足りた気がしてならない。

 

まぁ、それはそれとして。これを読んでいるみなさんの中には私と同じ思いを抱いている人がいると思う。本が読みたい、という思いだ。この思いは極めてシンプルだが、ある意味複雑でもある。本が読みたい、読みたいんだけど…忙しいんだ!…いや、忙しいというのは真実じゃない。時間自体が全くないわけじゃないんだ。例えば、ネットを彷徨ってこんな記事に飛んでくる時間がある。あるけど…とにかく時間がないんだ!といった感じに。

 

そう、結局のところ本を読むのには時間以外に必要なものがある。それは体力であり、気力であり、主体性であり、ともかくそういった前向きな何かだ。これを維持するのは実に難しい。知らない内に、若さとかそういうものと一緒に徐々に失われていく…らしい。まだこれを実体験として痛感する程には老いていないので、或いはその事実を認めたくないのでここでは「らしい」としておくが、それはそれとして。本というのは、当たり前だが貴方が読まなければ読み進められる事はない。つまりはそれが最大の問題点という事だ。

 

そんな需要にこの番組は見事に応えて見せた。映像というのは貴方が飯を食っていようが、洗濯物を干していようが、スマホをいじっていようが勝手に進む。つまり主体的であり続けなくて良い。無論理解するには最低限の主体性は必要だが、本を読むより少なくて済むのは確かだ。また、同じ映像でもインターネット配信でなく地上波というのも良い。一見妙な話だが、いつでも見れ「ない」ほうが見ようという気持ちを維持させるものだ。そもそも、いつでも読める本を自力で読めないからこうなっているわけだし。

 

それだけではない。伊集院光さんの素晴らしい番組進行も特筆に値する。テレビ番組というのは、往々にして遅いという事がある。遅い、というのはテレビが想定している視聴者に合わせているために起こる弊害だ。この意見が偏見に満ち満ちている事は承知の上だが、大抵の場合読書に励もうとする人は一般的な人の平均より物事を理解しようと頭を巡らせる事に慣れている。これは人の脳の処理能力に大差が無いことを鑑みれば、ある意味思考を硬直化させているだけとも取れるが、ここでは良い方に捉えることにする。ただまぁ、誰しも「そんなこたぁ百も承知だからとっとと先を話せ」と思った事があるだろうという話だ。

 

しかし安心して欲しい。この番組においておそらくその心配はない。テレビ番組が許容しうる理解の速度ギリギリを突っ走っている。…などと書くと私が自身の能力を過信しているバカのようで情けないが。実際には私がそう感じるだけで貴方にはそれほどではないかもしれないが、ここで重要なのは私が無能であるか否かではなく、伊集院光さんと、この番組を構成している人が有能である事だ。

 

考えて欲しい。例えば、100分で戦争論が読了し得るだろうか?無理だ。況や理解をや。だから講師の方は本文中から要点、いわば骨子を抜き出してくる。しかし、骨は骨だ。無論身全体よりは量は少ない。だが素材そのままの骨ゆえに「硬い」。理解し難いのだ。そこで伊集院光さんの出番だ。この方は講師の述べた事に対し、つまりこういう事ですかと別の言葉で返してみせる。これは本当に物事を理解している人だから出来ることだ。そして、本当はそんな反駁さえ必要ない程に素早く理解しておられるのだろう。アウトバーンで300km出せるスーパーカーが、日本の高速で法定速度ギリギリを出しているようなものだ。だから講師が「私より伊集院さんの方が理解してるかも知れないなぁ」などと言う事さえある。

 

そして、我々視聴者はその噛み砕かれた骨子込みで視聴する。当然、そのままより遥かに理解しやすい。時として100年、1000年と離れた時代に記された本より、今の私たちに向けて発される言葉の方がすんなり飲み込める。つまり、もののけ姫で腹部を撃たれ弱ったアシタカにサンがジャーキーを噛み砕いて口移しする様に視聴者の貴方に伊集院光さんが…いや、やめておこう。絵面が、アレだ。

 

最後に、もう一つこの番組の素晴らしい所がある。それは、興味のない本の話ばかりだと言う事だ。人は多かれ少なかれ、食わず嫌いをする。好きなものがあれば尚更だ。しかし、出された料理を跳ね除けるほどでもないのではないだろうか。そういう点で、この番組は狂ったフルコースだ。和食も洋食も中華も、それらに分類されない料理も貴方の意思とは無関係に供される。こんなもん別に食いたくもねぇんだがな、と悪態をつきながら貴方は料理を口にする。すると意外や意外、なかなかどうして新しい味わいがある。これに魅力を感じるなら、この番組を見てみるべきだ。

 

以上のような事から、私はこの番組を自信を持ってお勧めできる。興味を持った貴方には是非明日、11/4(月)22:25からの100分DE名著「法華経」第1回を視聴して欲しい。多分、有意義な25分になると思うから。

先輩のブログを読んで。

まずはこのブログを読んで来ていただきたい。

 

https://note.mu/shimakzk/n/n23bdd93cf8eb

 

知らない方のために説明しておくと、このブログの著書は私の高校時代の部活の先輩だ。2つ上に当たる先輩なので高校時代はほぼ接点が無かったが、大学生になってからは先輩のブログはほぼ全て読ませていただいている。いつも楽しみにしてます。

 

今回は私がこのブログを読んで思った事を吐露するだけの内容になると思われる。恐らく内容は概ね焼き直しになる上に、私の文章は稚拙かつ「拙速は巧遅に勝る」などと嘯いて推敲を怠る怠け者ゆえ見苦しいところも多いと思うが、どうかご海容願いたい。

 

さて、本題に入ろう。

思えば、世に言うところの文学と言われる「こころ」を読んだのは随分と前になってしまった。確か当時の私は「Kは「過去の自分が積み上げてきた信念(=精神的向上心)」と「現在の自分が抱く恋愛感情」の矛盾に耐えられなくなって自殺した自己中心的精神虚弱者」であり(その時の私はその矛盾に苦しむ事を惰弱と一蹴できる程精神が強靭だったようだ。今ならもう少し同情できる。)、「先生は今で言う所の同性愛者に近く、死ぬ事で自身の中で永遠になってしまったKと同じく、私の中で永遠になる事を狙って見せつけるように自殺した人間」であり、その後その連鎖に私が飲み込まれるのか断ち切るのかを読者の判断に委ねる為にあえて「私」と描写している…とか解釈していた気がする。何らかの形で残していなかったことが悔やまれる。もし夏目漱石が現代に生きてたらこころは小説じゃなくてノベルゲームとして発行していたんじゃないか…と思った事しか鮮明に覚えてない…。

 

そういえば、先輩が言う所の文学イキリを初めてしたのは中学で高瀬舟を読んだ時だろうか。病床の自分の存在が兄の重荷になっていると考えた弟は、あえて死の寸前に兄が帰ってきてその罪が兄に被るよう仕向け、罪人としてある程度保証された生活を送ろうとしたのでは…とかそんな深読みをした覚えがある。しかし、こころや高瀬舟くらいしか文学を読んでいないのも確かだ。だってスマホで安易な悦楽に浸る方が楽だもんね。

 

では、私は普段文学イキリをしていないのか?私はこれを明確に否定する。別に文学読まなくても文学イキリはしてるんや!

 

例えばマンガだ。

僕のヒーローアカデミアという週刊少年ジャンプで連載中の作品がある。私はヒロアカをNARUTOの存在を念頭に置きながら読む事で先輩の言うところの文学イキリをしているつもりだ。無個性だったデクと常に1番だったカッちゃんは、落ちこぼれだったナルトと優秀なサスケに符合するし、

「誰より身近な勝利の権化」としてカッちゃんを意識するデクと「見下していたのに追いつかれ追い抜かれるような焦りをデクに対して覚えるカッちゃんは、「お前と勝負して勝ちてーんだ」と言い続けたナルトであり、口寄せの術、我愛羅戦、螺旋丸とナルトの成長に焦ったサスケと被るし、

林間学校でカッちゃんがヴィランに連れ去られるのは、中忍試験で大蛇丸と出会うことだし、

オールマイトとオールフォーワンが半ば相打ちに近い形で決着するのは、三代目火影大蛇丸の戦いに似ているし、

互いの本音をぶつけ合ってデクとかっちゃんが戦う舞台がビルの「谷」間なのは、ナルトとサスケの少年編最後の戦いが終末の「谷」と呼ばれる土地だったことのように思える。あとあとエトセトラ。

 

一応言っておくが、ヒロアカはNARUTOのパクリだと言いたいわけでは無い。あくまで、私がそう解釈してイキっているだけだ。そんな誤解する人いないと思うけど一応、一応ね。

 

他にも沢山のマンガで様々な、所謂文学的解釈をしているつもりだ。文学的解釈と言うと硬いが、本質的に行う事は文学でもそうでない書籍でも同じなのではないだろうか。だって所詮イキリだし。

 

いや、書籍だけではないだろう。

例えばアニメだ。機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズという作品がある。これにマクギリス・ファリドガエリオ・ボードウィンという名門生まれの2人の青年が出てくる。彼らは物語開始当初は親友として出てくるが、シナリオ前半でマクギリスは己の野望のためガエリオを手にかける(死んでなかったけど)。そして終盤、再び宇宙で対峙した2人は互いの死力を尽くした戦いに挑む。死闘の果て、勝ったのはガエリオだった。死の間際、その心中を吐露するマクギリス。実は彼は名門の生まれなどではなく、貧困街の人間だった。誰もが貧しい世界で育ったマクギリスは「世界は暴力で成り立っている」と理解した。後にその美貌から男娼として買われ、養子にまでなった後もそれは変わらなかった。ただ暴力の形が拳から権力に変わっただけのこと。そんな世界に復讐を誓ったマクギリスが選んだ手段も当然暴力だった。しかし、ガエリオや他の幼馴染との日々がその決意を揺らがせる。かつての信念か、今の安らぎか。その矛盾から目を逸らしてここまで来たと。ガエリオ、お前は私の唯一の…。

しかし、そこでガエリオはマクギリスの言葉を遮った。もしその言葉の続きが俺の予想通りなら、俺はお前を許してしまうかもしれない。目を逸らして来たのはガエリオも同じ事。そして遂にマクギリスは事切れた。後には無重力空間の静寂に、2人の拳銃がぶつかった音が響くのみ。それはまるで誓いの金打のように…。

 

ここまで読んでくれた聡明な読者の皆様はもうお気づきだろうが、これは私にとって先ほど申し上げた「こころ」のオマージュと言える。後日談でガエリオは元の明るい性格に戻りつつあり、いわば「過剰に重く受け止めなかった先生」に当たる。それでいて、ガンダム的に言えばこの2人はシャア・アズナブルガルマ・ザビのオマージュとも言える。このように過去の例を持ち出して考察する事はきっと文学的解釈と言えるし、それをこうしてブログにドヤ顔で書く事はまさにイキリである。

 

いや、もはや文学、マンガ、アニメといった事だけではないかもしれない。例えばリンゴが地面に落ちるのを人類で初めて見たのはニュートンではないだろうが、そこに意味を見出したのは彼だ。蛇が自分のしっぽを咥えて輪になるイメージは古来からあったが、そこにベンゼン環の構造を見出したのはケクレだ。このように、物事はただそこに在るだけでは意味をなさない。世界のあらゆるものは個々人の主観による認識解釈により意味を与えられ、それらが共有される事で共通認識により価値を与えられる。人間が文学的解釈をする事で意味が生まれ、文学イキリをする事で価値が生まれたと言えないだろうか。過剰な拡大かもしれないが、まぁここは所詮私個人のイキリということで1つ。

 

と、こんな感じのことを思っていた。凡人の分際でカッコつけていうならば、やはり世界を面白くするのは自分自身なのだろう。

 

追伸

先輩のブログの中で出てきた「ボケ・突っ込み二元論」だが、寧ろ自分は東京に出て世界が二分されていない事に驚いた。ボケる事、ボケに対し、「しかし」と突っ込む事は社会性動物人類の絶対の義務では無いらしい。ボケ・ツッコミ共に当たり前過ぎず、然りとて意味不明すぎない距離感(自分はこれをハピタブルゾーンと呼んでいる。本来は恒星から適度に離れていて、水が液体で存在できる範囲を指す言葉だったはず)を保ちつつ生きるスリリングな日常は人によってはハマると思う。ぜひ大阪へ。

 

老いについて。本格編。

昔、一度老いについてというブログを書いた。要約すると「中学時代の感動に浸り直そうとしたらノスタルジックになっちゃったにゃぁ〜」みたいな話だった。老いること、美化すること、情報量の欠損、減ることばかりだけど、悪いことばかりじゃない。そんな話だ。

 

が。今回は違う。

私は今果てし無く現実的に老いに直面している。

なにも出来ん。出来んのだ。

 

事の始まりは先週、私が手術の為に入院したところから始まる。まぁこの頃から面白い事だらけの生活なので話すネタには困らないが、それらはリアルな人間関係で消費するとして。

 

私の現在の状況を記しておこう。

右手右足左手左足概ね正常。基本的に弄ってない部位は無事。

頭も特段以上なし、なれど花粉症が気になりだす。

おやじゃあ概ね健康かってんだけど、しかしそうは胴体が卸さない。ケーブルが二本刺さった上に大胸筋が断裂中、体力的にも疲弊しきりときたもんだ。

 

このケーブルが果てし無く曲者。抜くと体の中の生命のソースが出て行ってしまう。それ故にハイおさらばとは行かないが、こいつがあるとベッドの上から出られない。

 

更に手術後まともに寝れていないことも祟ってか、精神の方も大分イカれてきた。精神と身体は睡眠を求めてるのに自律神経が暴れているのか、目を閉じると何らかの物に対する根拠不明の情報が溢れてくる。と、書いても分かりにくいだろうか?例としてちょうど今私の目の前にある紙コップをあげる。平常運転の私にとって、そして恐らくは貴方にとってもその紙コップは紙コップに過ぎない。しかし、今の私には違う。それを認識した瞬間に「何が入っていて」「誰がそこに置いて」「その人はどんな人で」と言った情報が溢れてくる。しかも、全て妄想の産物だ。元々自分のことを夢見がちな奴だとは思っていたが、ここまでとは恐れ入った。架空の映画のオマージュシーンが出てくる架空の映画を叩きつけられた時は感動すら覚えた。

 

ともかく、この身体と精神の拷問により私は大絶賛ボロボロなのだが、1つ私には救いがある。

 

治る、という事だ。

 

そう、予定では手術から2週間ほどで退院し、まともな生活に戻れる保証がある。無論、この世に絶対というのはそんなに転がってないだろうから空手形だと言って仕舞えばそれまでだが、確度の高い保証ではある。

 

しかしそこで気づいた。老いには、終着点がない。不自由な肉体という牢獄に囚われ、出口の見えない苦しみにもがき続ける。それもまた老いの本質だ。それは想像することさえ恐ろしい。生き地獄とはこれを言うのだろう。

 

以上、体を大事にしようという事である。何ともありふれた言葉に落ち着いてしまったが、寝たきりを先行体験版プレイした者からの、未来の自分も含めた相手への忠告だ。

12について。

日付に従って今日まで(3日ぶり)ブログを書く!みたいな束縛を自分に課してたにもかかわらず、ようやく今日2019年のカレンダーに替えました。既に12分の1が無駄になっておる…

 

さて、12です。

と言ってもあんまり長く書く気になれないので「なぜ12日で止める気だったのか?」についてのみ書くことにします。

 

12。それは人類にとって「一周」の数です。12ヶ月然り、干支然り。60秒60分24時間も12の倍数ですね。星座占いやFairy Tailのルーシィでお馴染み黄道十二星座もそうですし、英語では12まで固有の名前が振られています。12歳はティーンエイジャーじゃないというアレです。恐らくこの辺りについては歴史的に何らかの繋がりがあるのでしょう。誰か調べて教えてくれ。

 

と、まぁこう言った具合に12という数が一巡には相応しいと思ったから…では無いんですね〜!後付けなんですね〜これ思いついたの一昨日なんですね〜!!!

 

じゃあなんで12で止める気だったかと言うと、単に私の誕生日が6/12日で、なんとなく12日を1つの区切りと捉えがちというだけです。

 

というわけで今回で一区切り。ちょっと予定が狂って何日が抜けてしまいましたが「一巡」です。そう、一巡です。一年が終われば次の一年が来るように、その内次の一巡を始めるつもりです。まぁ次は流石に「数字にちなんで〜」ではないテーマだと思いますが。

 

そんな事を考えた12日間でした。