うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

哲学しても一人。

いや、むしろ一人である方が多数派かも知れませんが。

 

さて、私にとっての、ブログにおける先達である幼女さんより、「哲学して」というお願いが届きました。2週間近く前に。(訂正!書いてる間に3週間から1ヶ月近くになりました!許せサスケ…)

 

で、それを受けまして。せっかくですから今回は真面目な話をば。

 

そもそも、哲学とはなんなのでしょうか。勿論、辞書を引けばある種の答えは得られますが、それを述べるのは私の役割ではないでしょう。

 

学問とは、恐らくは「学び問い詰める」から学問と書くのでしょう。では哲学という学問は何を問い詰めるのか?私は、生きる意味・目標を問うのだと思います。言うなればアンパンマンですね。何の為に生まれて、何をして生きるのか。それを分からないままに終わるのが嫌だから、答えを模索するんでしょう。

 

と!高校生の頃くらいまでは思っていたのですが!最近少し考えが変わりました。いや、考えが増えた、という方が正確ですね。と言うのも、学問というものは体系化された、普遍的なものでなければなりません。全ての幼稚園児が独自の文字を用いていては、とても小学校は機能しないでしょう。ひらがなカタカナという一般化された文字を強制するのは、でなければ学問として成立しないからなのでは?

 

つまり、自分の生きる意味を見出すだけでは哲学とは呼べないのです。自分の答えを探すのではなく、みんなの答えを探さなければならない。その意味で、私はこれまで一度たりとも哲学をした事はありませんでした。

 

実は、自分にとっての答えを見つけるというのはそこまで難易度が高いとは限りません。私の場合は20歳以前に、およそ自分の直面するほぼ全ての問題に対処しうる答えを見出せてしまえました。後はうん十年かけて答え合わせと添削をしていけばいい訳です。

 

ですが、前述の通りからは学問とはなり得ません。一般性に欠けます。そこで、この自分の答えがどこまで社会一般に拡大しうるのかを考えなければなりません。

 

私の答えとは大雑把に言えばこうです。

なぜ生きるのか?それは笑い、楽しみ、幸福であるためです。

ではそれらはどう定義されるのか?その基準は二つあります。

その二つとは?個人的意味と社会的価値です。

個人的意味とは?私という独立した個の自我が欲求するものです。

社会的価値とは?私という集団に属する自我が必要とするものです。

具体的には?三国志を読む。これは社会一般、あるいは私の属する大学では重んじられませんが、私個人には大変面白く、個人的意味があると言えます。

お金を稼ぐ。これは私個人にとっては、間接的に個人的意味を果たすのにほぼ必須と言える事を除けば、意味のない行為です。ただの紙切れですから。しかし、資本主義社会の一構成員である私には必要不可欠であるため、社会的価値があると言えます。

多くの物事はこれらの二つに対し、異なる重さを持っています。意味はあるけど、価値はない。意味はないが、価値はある。意味も価値も兼ね備える。意味も価値もない。そういう風に世の中のものはほぼ全て、この二つの、「独立した」天秤で計れる。それが私の答えです。

 

よく、「愛とお金どっちを取るか?」というような問いが、まるで究極の二択であるかのように提示されます。しかし、これは私の答えに基づけば、「難しい」のではなく「問いとして破綻している」のです。愛は個人的意味によります。お金は社会的価値によります。別の天秤に乗った物の重さが比べられるはずもありません。強いて言うのならば、天秤の重さを問われているとも受け取れますが、天秤を計れる天秤があるのなら、その大天秤がハナから愛とお金を測ればいいのです。でも私の答えではそれは必要ありません。

 

大天秤無くして、如何に正しい判断が下せようか!そう考える方も多いでしょう。ですが、私はそもそもその正しさを追求する事が幸福に繋がるとは思いません。人の一生は長く、世界は果てしなく広いです。自分の出した答えが正解だったのか?それに気づくのは死の間際かもしれません。死してなお、分からないかもしれません。

 

私は、幸福とは正しい事ではなく、後悔しない事によって得られると思うのです。後悔とはすなわち迷いです。あの時こうしていれば。あんなことをしなければ。これが後悔の正体でしょう。それは、自身の判断基準が曖昧だから起こる「揺らぎ」です。

 

しかし、もし明確な判断を下す天秤があったなら?もちろん失敗はするでしょう。大切なものを失うかも知れない。しかし、後悔はせずに済むでしょう。「それでも、私はあの時、こう思って選択したのだ」と言い切れることこそが、後悔を断つのだと私は考えます。

 

と、まぁつらつらと書き連ねてきた訳ですが。これは私の答えにすぎません。特に、後悔なき幸福の辺りからは完全に自分に特化した回答でしょう。しかし、意味と価値についてはある程度社会一般に通用すると考えています。なぜなら、この部分は私が私だけでなく周囲の人、即ち社会一般から見出した回答だからです。誰もが判断に迷う時、そもそも異なる判断基準を比べているのではないか?という疑問に基づくものだからです。

 

よってここを社会一般に拡大したい訳ですが、ここで個人的意味は脱落します。理由は単純。あまりに個人差が大きいからですね。人殺しが楽しい!みたいなサイコパスの個人的意味まで考えていては一般的な学問たり得ません。よって、社会的価値について話を広げます。ずいぶん小さくなったなぁ。

 

と、言ったところで今回はここまでで。本当は社会的価値の拡大についても書きたかったのですが、これ以上長文になると読むのが大変でしょう。私はこのブログに主に「今現在の自分の興味を綴る」という個人的意味を見出していますが、同時に「自分という存在を肯定/批判することにより誰かの考えが深まる」という読者を想定した社会的価値も見出していますので、疲れた皆様に配慮して一旦筆を置きます。

 

…あぁ、疲れた。