うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

友達のすなる日記というものを。

私もしてみんとて、するなり。

 

早速ネタ切れなんですが、ブログを始めてみました。稚拙な文章が続きますが、読んで頂ければ幸いです。

 

実は既にこの書きはじめを2度ほど書いており、それらはあまりにも堅苦しく、論文じみてしまったので封印したという経緯があります。不慣れって怖いね。

 

ふと思えば、ブログって何を書くものなんでしょうね?今日は◯◯にランチに行って来ました〜!みたいな人格してませんし、さりとて重たい話を書いても皆さんが苦痛なだけでしょう。私がこれを書いてみようと思ったキッカケの友人は、幼女のフリしてブログを始めましたので参考になりませんでした。

 

とまれ、今回は身近な友人の話を。

 

この度めでたく20歳になりまして、ちょうど故郷に誕生日が1日違いの友人がいましたので、もう1人別の友人と合わせて3人で祝いの席を設けたのです。ぱちぱちぱち。

 

ここで人物紹介をば。1日違いの彼は田中(仮名)。私と馬の合うオタクであり、一時は双子を疑いました。最近の趣味は、ガールズバーで将棋の話をして酒を飲む事。りゅうおうのおしごと!に触発されて将棋を始めた彼は、将棋が上手くなればロリと出会えると思っています。ジョークであってくれ。

 

もう1人の友人は佐藤(仮名)。私と馬の合う友人であり、家族ぐるみでの付き合いがあります。今回のお祝いも、彼の母上がセッティングして下さったものです。最近は目覚ましを鳴らしてから3時間後に起きて、大学を自主休講するのが日課。この日も三コマ吹き飛ばして私を待っていてくれました。なんて友達思いなんだ…。

 

今回話すのはその一幕。田中に酒が入り、佐藤の母上にメイド服を着て欲しいなどと抜かしはじめる前の事です。

 

事の発端は、田中が大学の集団課題が億劫だという話でした。曰く、「バンドのライブに参加しなきゃならないが、その分事前に集団課題に貢献するのも面倒」だとか。それに対して佐藤が「んなもん始めからやらんかったらよかったんや」と指摘。寝坊で1日吹き飛ばす彼らしい、思い切りのいい発想です。この思い切りにより、彼は行く意味を見出せなくなった高校を中退し、高卒試験で大学に行っています。

 

ですが田中としては「面倒でも価値はある」との事。彼はその奇特な言動にそぐわず、意外と自分の未来のことについて考えており、「将来エロゲ会社を起業して、文化を世界に広げたい」という大望を掲げています。ん〜、まさにcool Japan

 

ここで彼らの意見が食い違うのですが、私はそれは互いが重んじるものが異なるからだと考えました。要は、田中は社会的価値を重んじ、佐藤は個人的意味を重んじたのです。

 

私が考えるに、大きく分けて人は2つの判断基準を持ちます。それが社会的価値(以下、価値)と個人的意味(以下、意味)です。価値は、常識や社会制度に基づきます。学生だから勉強する、お金には価値がある、と言ったものは価値です。対して、意味は感情や欲求に基づきます。映画を見たいから見る、愛には意味がある、と言ったものは意味です。学生は個人的に嫌でも、勉強しなければなりませんし、お金は紙切れにすぎませんが、社会では価値があります。映画は何ら生産的でなくても、見たい時には見たいですし、愛は1円にもなりませんが、当の本人には意味があります。

 

そして価値と意味は、多くの場合両立しません。価値はあるが意味はない。意味はあるが価値はない。個人差はありますが、そういうものがほとんどです。結果、人はそのどちらを重んじるか選ばなければなりません。例えば、絶望の起床時に、「大学生なので大学に行かなければ」というのが価値に基づく判断で、「眠い、無理」というのが今に基づく判断ですね。こう言った時に、どちらかを選ぶ必要があるわけです。

 

そして今回、田中は無意識に価値に、佐藤は無意識に意味に基づいています。しかし、互いにそれに気付かないので、相手がおかしな判断をしていると思っていたようです。

 

結局2人は料理が届いた事ですっかりこれを忘れるのですが、ともかく私はこれを曖昧にしてはいけないと感じました。あの時、自分はどちらを重んじ、なぜ判断したのか。それが明白であるうちは、失敗すれど後悔はしないでしょう。

 

そうありたいなぁと思った20歳最初の夜でした。

 

PS  鳥の軟骨の唐揚げが美味しかったです。