うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

老いるとは。

別にこのタイトルは何かのオマージュではありません。それにしても20歳の書くタイトルじゃねぇなぁ…

 

先日、近くの映画館で「あの花」(あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。)のリバイバル上映を観てきました。

 

いやぁ、泣きましたね!上映中ずっと泣いていた映画など後にも先にもこれだけでしょう。意外に思うかもしれませんが、私も鬼ではないので泣くことができるんですよ。

 

とまぁこれ以上は、ただの「secret base」を聞くだけで涙腺が決壊するオタクの話になってしまうので本題に入ります。

 

老いる、って言葉にみなさんはどんなイメージを持ちますか?私はこの言葉が嫌いでした。老いるとは劣る事であり、退行する事であり、忘れる事であり、極め付けに死に近づく事ですから。

 

夏目漱石の「こころ」ではありませんが、自らの精神が衰えつつあるなど、ましてやそれを認めるなど、自分には受け入れがたい事です。どんなに緩やかでも、人が人としてある為には自分の加速度を正に保たなければ。人は常に進歩し続ける事で、いつか星々の果てにまで手が届くはず。それが私の考え方なのです。

 

しかし、ふと思ったのです。それだけではないのだと。

 

私が初めて「あの花」を知ったのは中学生の時でした。その時も号泣した覚えがあります。思えばそれからはや5年。いつのまにかじんたん達より年上になり、あの日の自分はまるでめんまのよう。…いや、そんなに可愛くないですね。クソガキでしたね。

 

しかし、5年という月日は残酷です。日々の中で記憶は薄れ、「あの花」の内容の全てを思い出すことは出来なくなりました。後には「あの花」で感動し、泣いたという、その記録だけが残りました。

 

ですが、ふと思ったのです。だとしても、思い出は美しいのではないかと。

 

時間は、まるで川の流れのように、止まることはありません。どんなに悔やんでも、その流れは変わりません。そして、その流れの中で思い出という石は削られ、欠け、小さくなっていきます。どんな巌も、いつかさざれ石となる様に。

 

しかし、それは失うことなのでしょうか。以前の私にとってはそうでした。しかし、今は違って思えます。思い出は、それ故に美しいのです。さながら、川の流れに揉まれた石が滑らかな丸石になる様に。

 

5年の時を経て再び出会った「あの花」はとても美しかったです。でも、この涙はきっと、5年前の私が流した涙とは異なるのでしょう。あの日の私を、今の私は思い出せません。だからこそ、泣いて良かったと思うのです。

 

老いるとは、劣る事であり、退行する事であり、そして、忘れる事です。でも、忘れる事は、失う事ではありませんでした。

 

そしていつか、この思い出はさらに削れ、欠け、いつかは思い出せないほどに小さくなるのでしょう。それでいいのです。それらは流した涙に溶け、いつか自分自身という続いて行く川の一滴になるのでしょうから。その時初めて、私の一部になるのかもしれません。

 

そんな二十歳の夜でした。