うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

老いについて。本格編。

昔、一度老いについてというブログを書いた。要約すると「中学時代の感動に浸り直そうとしたらノスタルジックになっちゃったにゃぁ〜」みたいな話だった。老いること、美化すること、情報量の欠損、減ることばかりだけど、悪いことばかりじゃない。そんな話だ。

 

が。今回は違う。

私は今果てし無く現実的に老いに直面している。

なにも出来ん。出来んのだ。

 

事の始まりは先週、私が手術の為に入院したところから始まる。まぁこの頃から面白い事だらけの生活なので話すネタには困らないが、それらはリアルな人間関係で消費するとして。

 

私の現在の状況を記しておこう。

右手右足左手左足概ね正常。基本的に弄ってない部位は無事。

頭も特段以上なし、なれど花粉症が気になりだす。

おやじゃあ概ね健康かってんだけど、しかしそうは胴体が卸さない。ケーブルが二本刺さった上に大胸筋が断裂中、体力的にも疲弊しきりときたもんだ。

 

このケーブルが果てし無く曲者。抜くと体の中の生命のソースが出て行ってしまう。それ故にハイおさらばとは行かないが、こいつがあるとベッドの上から出られない。

 

更に手術後まともに寝れていないことも祟ってか、精神の方も大分イカれてきた。精神と身体は睡眠を求めてるのに自律神経が暴れているのか、目を閉じると何らかの物に対する根拠不明の情報が溢れてくる。と、書いても分かりにくいだろうか?例としてちょうど今私の目の前にある紙コップをあげる。平常運転の私にとって、そして恐らくは貴方にとってもその紙コップは紙コップに過ぎない。しかし、今の私には違う。それを認識した瞬間に「何が入っていて」「誰がそこに置いて」「その人はどんな人で」と言った情報が溢れてくる。しかも、全て妄想の産物だ。元々自分のことを夢見がちな奴だとは思っていたが、ここまでとは恐れ入った。架空の映画のオマージュシーンが出てくる架空の映画を叩きつけられた時は感動すら覚えた。

 

ともかく、この身体と精神の拷問により私は大絶賛ボロボロなのだが、1つ私には救いがある。

 

治る、という事だ。

 

そう、予定では手術から2週間ほどで退院し、まともな生活に戻れる保証がある。無論、この世に絶対というのはそんなに転がってないだろうから空手形だと言って仕舞えばそれまでだが、確度の高い保証ではある。

 

しかしそこで気づいた。老いには、終着点がない。不自由な肉体という牢獄に囚われ、出口の見えない苦しみにもがき続ける。それもまた老いの本質だ。それは想像することさえ恐ろしい。生き地獄とはこれを言うのだろう。

 

以上、体を大事にしようという事である。何ともありふれた言葉に落ち着いてしまったが、寝たきりを先行体験版プレイした者からの、未来の自分も含めた相手への忠告だ。