うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

エヴァ14才。

まず、改めて自己紹介をさせて欲しい。

私はオタクだ。00年代のネットで産湯を使い、男女やウッウーウマウマを子守唄に育った生粋のオタクである。そんなわけだから、エヴァを観れば感想を長文で書き殴りたくなるのは謂わば本能であり、本能に従って筆を取った次第である。

 

当然だが、この先は最新作「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のネタバレを含む。

 

自己紹介ついでに、少し自分語りをさせて欲しい。先ほど私はオタクだと名乗ったが、哺乳類にもウマだのモルモットだのいるように、オタクにも色々いる。その中でも私は3才の時から今に至るまでガンダムオタクである。エヴァガンダムは特に関係のない作品だが、同じロボットアニメとして同じ文脈で語られやすい。本当は双方のファンがその扱いには言いたい事があるけれど、世間的にはそういう扱いだった。

だからだろうか、小さい頃から私はなんとなくエヴァンゲリオンが嫌いだった。何かと理由をつけて観るのを避けてきた記憶がある。

そんなわけで、結局私が初めてエヴァンゲリオンを観たのは中学の終わりか高校の頃だったと思う。新作の上映に合わせて金曜ロードショーでやるという事で、「タダならまぁ…」と思い腰をあげたのだ。だから、私がエヴァンゲリオンに出会ったのは14才よりも後だったのだ。

 

そう、思い返せばあの時には既に私は14才ではなくなりつつあったのだ。

 

14才。エヴァンゲリオンにおいては重要な年齢である。主人公の碇シンジをはじめとしたエヴァパイロット達はみな14才の子供であり、新劇場版では更に14年の歳月が過ぎた世界に関わらず身体的には14才のままであるなど、エヴァパイロット=14才はある種のルールとも言える。

ところで、現実での14才とはどんなことを指すだろう。学年で言えば中学2年生、所謂中二病真っ盛りの時代である。ある意味いちばんエヴァにハマりやすい年齢とも言えるかも知れない。ただ文部科学省のHP(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/053/shiryo/attach/1282789.htm)によれば、14才は「思春期に入り、 親や友達と異なる自分独自の内面の世界があることに気づきはじめるとともに、自意識 と客観的事実との違いに悩み、様々な葛藤の中で、自らの生き方を模索しはじめる時期 である。」とのことである。

エヴァンゲリオンが通常兵器の通用しない使徒に対する切り札として扱われるのは、使徒の用いるATフィールドと呼ばれるバリアを中和して攻撃できるからである。このATフィールドは、誰もが持つ心の壁だと言われる。文科省の言い方に合わせれば、自分独自の内面の世界と外界とを分つ壁である。

これは偶然の一致ではもちろんない。エヴァンゲリオンは巨大なヒトガタのバトルや壮大な設定を舞台装置として駆使しながらも、その軸足をあくまでも14才を中心にした心の揺れ動きに置いている作品なのだ。こういった作品を古いネットの言葉でセカイ系という。本来はエヴァが後のセカイ系を生み出すきっかけなので変な言い方だが。

 

本題に入ろう。

私は、シンエヴァをもって締めくくったこの作品を決別と願いの物語だと思う。コロニーでの生活を経て自分の責任を自覚したシンジが、ゲンドウと決別する。ゲンドウがユイの思いに気づき、自らシンジと決別する。アスカが自身の弱さを認めて、素直になれない自分と決別する。アヤナミレイが命令ではなく自ら望むことを見つけて、ゼーレと決別する。女として、職務に殉じる公人として生きたミサトが自分の願いの為に、父親や恋人を失った過去や子供との未来と決別する。シンジを幸せにしたいという一心だったカヲルが自らの願いに気付いて、シンジと決別する。与えられたものではなく、自らの力によってのみ槍を作り上げることで、リリンはリリスと決別する。そして、あのセリフの通りシンジと私たち視聴者が、暴力的な対話手段としてのエヴァンゲリオンと決別する。

だがその決別は、決して悲しいものではなかった。なぜならこれは自然なものだから。水が易きに流れるように、花がいつか枯れるように、子が親離れをし、親が子離れをするのは自然なことだからだ。

これはやはり14才の物語なのだ。

 

 

 

そして私は14才ではない。エヴァンゲリオンという作品の古さを考えれば、むしろ多くの視聴者が実年齢的にも自己発達的にも14才を大きく過ぎているだろう。だから、多くの人がシンジ自身に自己を投影することはなかったのではないだろうか。少なくとも私は作品に初めて触れた時から、つまり14才を過ぎてから殆どどのキャラクターにも感情移入できていない。むしろ、俯瞰的に彼らの心の葛藤や苦しみを見ていたと思う。それは謂わば、14才の子供を見る親の視点であったかも知れない。

私は結構映画館で泣きまくるタイプなのだが、今回のエヴァは泣かなかった。何故だろう、と上映中に不思議に思っていたのだが、シンジが「涙は自分を慰めることにしかならない」といったような事を言っていて腑に落ちた。その通り、私は彼らの誰でもない。だから涙が出ないのだ。ことこの作品に限って言えば、全く正しい回答だと思った。

もう一つ、ハッとさせられる事があった。シンジとゲンドウのやりとりの中で、自分と父親をイメージさせる部分があったのだ。どの部分であったかは流石に言及しない。別に、私の父親が久しぶりに会ったら目からビームを打つようになっていたわけではないからそれは安心して欲しい。ただ、こうして茶化したくなるくらいには気恥ずかしい部分であったのは確かだ。だがシンジが出した答えと14才の私が出した答えは、まるで違っていた。それはそのどちらもが当人の意思による決断であり、環境による必然でもあったが、今の私にとっては昔のアルバムを捲るような心地を抱かせた。枝分かれした道は、直進する限り交わらないのである。

 

結果、上映後に残ったのは親としてシンジたちを見送った大きな満足感と、14才の自分へのわずかなノスタルジーだった。まさしく、シリーズのラストを飾るにふさわしい、一分の非の打ち所もない大作であり、完全な「さようなら」であった。出来る事なら、旅立つ彼らに拍手をしてやりたいくらいである。つまり、「ありがとう」「さようなら」「おめでとう」とはそういう事なのだろう。

 

というわけで、これで筆を置こうと思う。まだまだ言いたいことは沢山あるのだが、なにぶん感情を書面にするというのは大量に熱量を消費する作業であり、有り体に言うと疲れた。口を動かす分には疲れない性分なので、以降は古きインターネットの、更に先達たちに敬意を払って友人と口頭で語り合うこととする。

 

最後に。

タイトルを見てちゆ12才のオマージュだと気付いた貴方は凄い。