うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

アーサー・C・クラークと人生。

アーサー・C・クラークという作家をご存知だろうか。私はよく知らない。ではなぜこんな文を書いているかというと、またしてもNHKの番組「100分de名著」の影響である。

 

しばらく前、その番組では彼の特集が行われていた。彼の、という表現から分かるように特定の著作ではなく4週かけて4作を紹介する構成だ。内訳は

太陽系最後の日

幼年期の終わり

都市と星

楽園の泉

である。ファンには納得のラインナップ…なのだと思う。多分。ちなみに朗読は銀河万丈さんだ。さぁ!本日の鑑定品は!

 

ここまでで分かる通り、私は彼の作品を読んだことが無い。むしろこの番組で読んだことのある本を取り上げられてもしょうがないのだが、それはさておきそんな私がこうして感想を書いているのには理由がある。それは、私が彼を知っていたからだ。

 

最初に違和感を覚えたのは第二週「幼年期の終わり」を試聴し終わったときだ。幼年期の終わりのあらすじはこうだ。ある日、オーバーロードと呼ばれる地球へやってくる。彼らはその圧倒的な科学力で地球人の抱えていた問題を多くの人が納得のいく形で解決してしまう。それを目の当たりにした人類は技術の発展をやめ、芸術などの創造的行動に耽るようになる。しかしある日、人間の子供たちが一斉に超能力に目覚め、オーバーマインドという宇宙的超越統一意志と一体になり始める。そしてオーバーロードは科学力により発展したもののその結果母星が不毛の地となり、さらにオーバーマインドの存在に辿り着くも自身にはその進化の可能性がなかったために、せめて他の知性だけに同じ過ちを繰り返させず参加の手助けをせんとして地球に現れたことが明かされる。ラストシーン、すべての真実を知った人間の青年が子供たちがオーバーマインドと一体になる燃料として燃え尽きる地球と運命を共にする場面で終わる。

 

ここで私は気づいた。圧倒的な科学力を持つ異星種族。科学力によって母星が滅びた文明。そして彼らに主導される超越的存在への一体化。滅び去る人類。私の脳裏に閃いたこのあらすじは幼年期の終わりのものではない。GODZILLAという三部作で構成される劇場3DCGアニメーション作品だ。その名の通り、この作品は怪獣映画の金字塔ゴジラの流れを汲みつつも過去の作品のいずれとも異なる独自のテーマと設定で再構築した作品である。もちろん断片的に切り出したキーワードが一致しただけであり、物語の経過や決着は異なる。だが私はそうした表面的なものより、登場人物や設定の流れというか根底にあるものの一致を感じた気がした。

 

奇妙な予感を覚えた私は残りの2週も一気に視聴した。こういう時録画勢は有利である。

 

そして私のそれは的中した。第3週「都市と星」は私の大好きな劇場3DCGアニメーション「楽園追放」を彷彿とさせ、第4週「楽園の泉」とそれを執筆した彼の心情の変化は「Gのレコンギスタ」とその監督富野由悠季氏のインタビューの内容とダブってみえた。

 

ここで明言しておくが、私はこれらの作品に対しアーサー・C・クラークのパクリであると述べたいわけでは断じてない。これらの一致は作品が同一のものであるとか出自が同一であることを意味するものではないからだ。私たち人間のDNAが99%一致しても同一の人間は存在しないのと同じように、面白い作品というものは多かれ少なかれ共通する要素があり、その上で異なる作品として結実するのだ。もし過去に全く類を見ない作品というものがあるとすれば、それこそ地球生物に対する異星生物くらい既存の面白さからかけ離れていることだろう。

 

話を戻す。こうして4週の番組と作品を知った私は、彼に親近感を覚えていた。私は彼の作品を知らない。もちろん面識もない。だが、私の人生の中にはそれとは分からない形で常に彼がいたのだ。そういう感覚があった。なんと幸福なことだろうか。見たことも会ったこともない人物が私の中で生きている。私はこの時、死んだ人も心の中で生きてるんだという陳腐なフレーズの意味を本当に理解したように思えた。

 

私は人類最後の1人になるまで生き続けるつもりなので、死んだ後に誰かの心で生き残るかは取り敢えず気にしない。だが、結局生きていても同じことなのではないだろうか。ある人の中からいなくなってしまえば、それはその人にとって、ある意味肉体のそれ以上の意味で死んだということなのかもしれない。そんなことをふと思った。