うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

地平線と選挙とニュータイプ。

 

 

先日、大きな選挙があった。Twitterなどでは候補者を支援する言説が飛び交い、大変な賑わいとなった。中でもある候補を推す声は大きく、私が推す候補ではなかったが漠然とその候補の勝利を予感していた。しかし、蓋を開ければ結果は予想とは大きく異なっていた。実際にその選挙で勝利したのは、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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辻野あかりちゃん、砂塚あきらちゃん、桐生つかささんボイス実装おめでとう!

 

都知事選だと思った人はブラウザを閉じるのを少し待って欲しい。ここから真面目な話になるからだ。

 

冒頭の文章を読んだ時、貴方は無意識に都知事選の話だと思い込んだのではないだろうか。表現に若干の違和感を覚えたとしても、そこに疑念の入り込む余地はなかったはずだ。「そんなゲームのことなんざ知らんのだから当然だろう」?そう。当然なのである。だが、敢えてこの当然に疑問を呈したい。

 

冒頭の文章はミスリードを狙ったものであるから、いずれかの落選した都知事選候補者を支援していた人間が小池百合子氏の再選を驚きと苦々しさと共に知った時の文であると読めるのは当然である。(実際にはある候補とは浅利七海ちゃんであり、私の推す候補とは八神マキノちゃんである。)だが、「そう読める」事は「そうとしか読めない」事を意味するだろうか。

 

人間には誰しも、分かることと分からないことがある。人によってその範囲の広さは様々であるが、あらゆる人が自分のわかる範囲を持っている。その人を中心とした円をイメージして欲しい。その内側が分かる世界であり、外が分からない世界だ。そして多くの場合、分かることは好いことであり分からないことは嫌なことである。そのため、人は自分が分かると思った事を敢えて疑おうとはあまり、しない。だが実際には自分の円の中にあるのは実像とは別のものであったり、巨大な実像の氷山の一角に過ぎなかったりするのだ。

 

これは都知事選の際にも多く見られた事だ。あの日、小池百合子氏の当確が出た後SNSでは「〇〇が当選すると思ってた」という書き込みが多く見られた。また、そうではないにせよ小池百合子氏が圧倒的票数差で当選するとは思っていなかった人は更に多くいたと思う。これはその人たちの円の中にあったのは非常に偏った視点であり、実際の世論の氷山の一角に過ぎなかったという事だ。

 

しかしあの日、都民ではない私のTLには小池百合子氏の都政に疑問を呈する言説が溢れていたにもかかわらず、この結果を意外には思わなかった。それは私が都知事選に興味を持っていなかったからではなく、私の円が大きいかったためでもない。もっと単純な理由だ。私はそういった認識のズレを既に経験していたからである。奇しくも、冒頭に述べたゲーム内選挙において。

 

1位は辻野あかりで決まりだろう。そして、2位以下は群雄割拠の様相を呈しており予想はつかない。これがゲーム内選挙の開票前の私の予想だった。そしてファンの方には大変失礼だが、この群雄の中に実際に2位になる砂塚あきらは含まれていなかったのだ。だが実際に彼女は「当選」した。しかも3位に大きな差をつけ、1位に迫る得票数でだ。そして開票の後、この結果についての様々な考察の中から最も私が確からしいと感じた要因は彼女の知名度、それも比較的熱心「でない」ユーザー層での知名度である。

 

SNSで候補者の宣伝を行う人というのは、いわば熱心な支持者である。そしてそれを受け取る人もまた、「ゲーム」について情報を集めようとする熱心な「ユーザー」であることが多い。だがここでは認知されない「ゲーム」について熱心でない「ユーザー」というのが私の円の外にかなりの規模で存在した。彼ら「ユーザー」は多数いる候補者の誰にも思い入れはない。しかし投票しないのももったいない。ではせめて知っている候補に投票しよう。そう考えるのは彼らにとって当然であり、知名度が高かった彼女に票が集まるのもまた当然と言えた。

 

ここまで読んで頂いた貴方ならお気づきだろう。「ゲーム」は「都政」であり、「ユーザー」は「有権者」である。実際に都知事選の後の調査では「知らない候補者に入れるのはなんかちょっとねぇ」という意見も多くあった。

 

私の円の中ではこうだったから、きっとこうなるに違いない。このように、人は物事を自分の円の中で説明付けてしまおうという癖がある。これは、自分の見える円が世界の全てだと思い込んでいるとも言えるだろう。そして、人は異なる円を理解できないのだ。誤解や争いのタネは全てここに起因すると私は考える。

 

世界最古の世界地図は紀元前600年ごろに作られたバビロニアの世界地図であるとされる。

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これはバビロニア世界の人々にとっての円である。この円は彼らの視界に基づいている。彼らにとって地平線、水平線の彼方は分からない事であったのだ。

転じて、今の我々はどうだろうか。メルカトル図法で描かれた世界地図を見たことのない人はいない。だが、どんなに背伸びをしてみても地平線の彼方は見えないままである。これは純粋に視野に限界があるからだが、認識の面でも同じことが言える。インターネットが地球上を覆い尽くし、新たな世界地図となった現代において、日本とブラジルで連絡を取る事は難しくない。このように物理的障害が排除されて尚、私たちは各々に認識の範囲、すなわち円を設定してしまう。その気になれば地球上の全てを認識しうる手段を手に入れても、人間の円はさほど大きくなってはいないのだ。

 

人は、円をより大きくする事は出来ないのだろうか。

 

ここで突然だが、機動戦士ガンダムの話をさせて欲しい。貴方はガンダムとコラボした広告などで、額に稲妻を走らせるシーンを見たことがないだろうか。額に稲妻を走らせている人のうち、変な仮面つけてる方がシャアで付けてないのがアムロなのだがそれはそれとして、その額に稲妻を走らせている彼らは作中でニュータイプと呼ばれる進化した人類なのである。彼らはその力を用いて超人的活躍を見せるのだが、そもそも作中で語られるニュータイプの定義は「宇宙に進出した人類が空間の広がりに直面して個々の認識を拡大させ、人と誤解なく分かり合える可能性を持つに至った新たな人類」(諸説あり)である。これはまさしく、円が広い人類ということだ。

 

では、彼らニュータイプは円が広がった結果互いに分かり合えたのだろうか。残念ながら答えはNoだ。無論分かり合えたニュータイプもいたが、そうではないものも多く居た。例えば先述したアムロとシャアは共に全ての人間がニュータイプになるべきだという意見を持っていたにも関わらず方法論の違いから対立してしまう。またあるニュータイプは認識が広がった末にあまりにも多くの人の精神と感応してしまい精神に異常をきたしてしまう。このように作中ではニュータイプが人類の新たな可能性であると描写する一方で、それだけでは必ずしも上手くいくとは限らないとも示している。

 

これらはあくまでフィクションに過ぎないが、現実に類似の事例は多い。例えば、環境や経済、それこそ政治といった分野の問題についてSNS上で意見が交わされる時、異なる意見同士が対話による解決ではなく相手を否定しようと躍起になる事は多々ある。また、多くの人のネガティブな感情を目にする機会が増えた事で精神を病んでしまう人もいる。こうして考えれば、ある意味で我々はすでにニュータイプとなりつつあるのかも知れない。そして同時に、ニュータイプとなるだけでは十分ではないというのも確かなのかもしれない。

 

すると、何が足りないのだろうか。私はかつてこれを「他者に対する許容」であると考えた。異なる人々の円が接触する時、さながらベイゴマのように激しい衝突生まれかねない。だから、自分自身の分かる円の拡大は程々に他者に対する許容を持って相互に距離を取る事で争いを減らせるのではないか、と。だが、現実にはそうはいかない。地球という星はあまりに狭く、私と貴方の円は接触しないよう距離を取れても、私「たち」と貴方「たち」の円はどうしても触れ合ってしまう。それは文化圏の対立であったり、イデオロギーの対立として表面化してきた。人が宇宙に出てより広い空間を得ればあるいは、とも考えたが、まさにガンダムはそうして尚争いの絶えない世界であり現実がそうならない保証はどこにもない。

 

だから、今、私の円の中に答えはない。ここまで読んでくれた貴方には申し訳ないが、私は疑問を呈するばかりで答えを持ち合わせない。だが、貴方の円の中には答えがあるかもしれない。自分にとっての円の外でも、誰かにとっての円の内かもしれない。私は、唯一このように人の助けを借りる事のみは正しいと信じてこのような文を書いてみた。