うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

反戦

今日は8/15で、これは日本にとって終戦の日とされる。これについて思う事をまた例によって未来の自分宛に書き記す。ただし簡潔に、日を跨ぐ前に。

 

毎年毎年悲惨な戦争の記憶を語り継ぎ、戦争という過ちを繰り返さないようにしようというお話を聞く。悲惨な戦争の記憶を語り継ぐ事には賛成だ。自分も祖父から当時の生の記憶を聞く経験があり、その質量質感の異質さは今でも胸にこびりついている。また戦争を再びしないようにしようというのも大いに賛成だ。自分は根っからの反戦主義で、これは戦争は起こらないと思考停止することでもないし起こり得る戦争に対する備えを否定するものでもないが、国際政治における外交的手段のひとつとしての戦争をあらゆる場合において取りうる選択肢としないという事である。

 

だが戦争の記憶を語り継ぐ事は戦争の抑止につながるのだろうか。仮にこの命題を真とする。命題というのは証明には手間がかかるが反証は反例一つあれば良い。よって答えは単純である。繋がるとは限らない。

 

そう言い切らせる反証とは何か。それはドイツである。日本で太平洋戦争と呼ばれる戦争は第二次世界大戦の一戦線に過ぎず、第二次がある以上第一次があった。第一次世界大戦終結が1919年であり、第二次世界大戦の引き金となったポーランド侵攻が1939年であった事を考えるとその間たったの20年である。実際にはヒトラーが政権を取ってから戦争の準備をしていた期間があるのでより短く見積もっても良い。もし戦争の記憶が戦争を抑止するというのなら、ほんの20年足らずのうちにドイツ人を始めとしたヨーロッパ人は1600万人の戦死者と2000万人の戦傷者を忘れ去ったことになる。ありえるだろうか?彼らは父であり、夫であり、友であり、兄弟であり、恋人であり、息子であったにもかかわらず、ほんの20年で忘れ去るなどという事があるだろうか?そんなはずはない。その悲しみは敗戦後の困窮とともに憎しみや憤りといったものになり、ナチスの台頭を許してしまったのだ。

 

だから戦争の記憶があるだけでは不十分だ。それだけでは戦争を抑止しえない。日本が今日まで平和という幻想を享受しえたのは経済力や地政的な事情や偶然といったもののおかげであり、それらは残念ながら不変のものではない。経済力の衰退は収まらない。地政学的事情も絶えず変化している。偶然というやつがいつも味方とは限らない事は誰しも人生経験から明らかだろう。

 

だからこそ今日この日に考えたい。戦争を避ける思考のできる民主主義国家の一市民として、何が不足しているのかを。ちなみに断っておくが、多分ミリオタになる必要はない。何もそこまで常人から外れなくても良いと思いました。