うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

1について。

よーいどん、ではありません。About one です。

 

今日から毎日、日付の数にちなんだ話を毎日していこうかと。今のところ12日までは続けるつもりです。…分かります。画面の向こうのあなたの言いたい事はよく分かります。なんで元日に始めんかってん、そう言いたいのが分かります。でもしょうがないじゃないですか、思いついたのが1/31なんですから。しょうがないじゃないですか、まだ去年のカレンダー張ってあるような私なんですから。

 

さて、本題に入りましょう。

 

1です。それがなんじゃい、と言った感があるほど単純な情報ですが、この文字1つとっても本当は多くの情報が詰まっています。例えばこの「1」はアラビア文字の「いち」です。このように、当然「いち」という概念の表し方はこれ1つではありません。一。ワン。イー。アイン。アン。人差し指を立てるのもいいですし、親指から数える文化もあった気がします。

そこで、私なりに「いち」という概念に文字を与えてみるとしましょう。

 

ふむ…「有」というのはどうでしょうか?ご察しの方もおられるでしょうが、二進数における「いち」を漢字で表してみました。二進数の細かい講釈は専門の方にお任せしますが、先ほどの十進数的「いち」と異なり、力強いイメージが有りますね。十進数において「いち」は極めて頼りない印象がありますが、二進数の「いち」は絶対的存在感があります。

 

続いて「最」というのも考えてみました。最高、最大、最長、最強。これらはすべて「一番〜」という意味を持っています。そういう意味で、「いち」の1つの側面を端的に表していると言えるのでは無いでしょうか。日本語に2番目を表す1文字が、私の知る限りない事からしても、「最」という文字が特異な力を持っていることが分かります。二位じゃだめなんですよ、一位じゃなきゃだめなんです。日本で最も高い山は富士山ですが、2番目に高い山なんて知ってますか?私は知りませんでした。(北岳3193mだそうです)

英語でもgreatestなどと綴るあたり、やはり「最」は特別な気がします。

 

こんなところでしょうか。もし何か思いついた方がおられたらご教授願いたいのですが、それはさておき。

「有」と「最」。オンリーワンとナンバーワンとでも言えば良いのでしょうか?思えば、人間は「いち」という概念の中に随分と異なる考えを詰め込んだものです。SMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞ではないですが、ナンバーワンに成ることと、オンリーワンで有ることは難易度に天地の開きがあります。大抵私たちはナンバーワンには成れません。そして、オンリーワンでは満足できません。昔の人はそんな人間の難儀さを「いち」に込めたのでしょうか。

 

そんな事を考えた1日でした。

なんだかんだトライアンドエラー。

書きかけの状態で発掘されたので、モチベゼロですがとりあえず完成させたものです。やる気は生鮮食品ですね…

 

友人に「どうやって初対面の人と話すの」と言われました。

…いや、私もそんなん知りませんよ!もっと聞くのに適した人いたでしょ!という気がしないでもないですが、こういう問題は、出来る人ほど自然にこなせてしまう為に、「なぜ?」と問われると「なんとなく…」と回答しがちな気もします。

そういう意味では、ある意味適役かも知れません。

 

とまれ、とりあえずは私が初対面の人に話しかける際に意識していることでも。

ありきたりですが、「自分との共通点を探す」。これに尽きると思います。そもそも、ここで奇抜な回答が出ることはあり得ないのでは?奇抜=一般的でない。初対面の人に普遍的に通じる心構えが一般的でないはずがありませんし。

では何故ありきたりな事が分かっていても話しかけられないか?それは具体性が欠けているからでしょう。共通点を探せ?で?その後は?ってなるからではないでしょうか。

 

と、言うわけで。

より具体的な話をしましょう。

まず、共通点を持つ人を見つけられたとします。この時、当たり前ですが外見から判断しますので、ジロジロと値踏みしているように見えない程度にその人を見ます。

有りました。その人はあなたの良く知るゲームのグッズを持っていました。ここで「とあるゲーム」という共通点を見つけました。ちなみに書き忘れましたが、今回読者のあなたはオタク、ないしは所謂隠キャであると想定してます。

 

次に、共通点を用いて話しかけます。かけるんですが…ここで、気をつけていることがあります。

それは、「相手に話させる」ことです。ついつい我々オタク君という生き物は、自分のホームグラウンドというか、知っている事となると饒舌になってしまいがちですが、仮に親しい間柄であっても、気持ちいいのは話している側だけという事が往々にしてあります。…ごめんなさい、これから気をつけます。

しかし、話されるより話している方が気持ちいいのはオタクに限った話ではありません。多くの人が、自分の好きなことについて人に話すのが好きです。ソースはありませんが。

ここでは、せっかくの初対面のチャンスを無駄にしない為にも、「そのゲーム、好きなの?俺も昔やったんだよね〜。キャラクター誰が好き?」とか、相手に話させる方向に持って行きましょう。

(ちなみに「自分から何を話していいのか分からない!」という貴方も、このようにすれば話すという重荷を相手に押し付けられて万々歳ですね。)

 

ここまで上手く行けばしめたものです。後は相手の話を広げつつ、相手に話させる構図を維持して気持ちよくしてあげましょう。ちなみに全く関係ない話ですが、相手に行動を起こす側でありながら、その実、相手の要求に応える事が求められているという構図は、昔SMクラブの女王様の実体験ブログか何かで読んだ気がします。Sって事はMって事なんじゃないかな。

 

そして、これが何より一番大切な事なのですが、とっとと見切りをつけるようにしましょう。

上記の流れはあくまで理想ムーブです。上手くいかないこともあるでしょう。そういう時はさっさと見切りをつけて、別の人へ向かってみましょう。どうせ69億9999万9999分の1人に過ぎませんから、どんどん次行ってみましょう!

更に、上手く行ったとしても、その後折り合いが付かないとか、そいつが更に大きな集団の中でカースト低位に落ちて、或いは上位に上がって、即ち自分とそりが合わなくなるとかそういう事態が起こり得ます。

切りましょう。

ストレスになったらとっとと切ってしまいましょう。損得勘定のみで人間関係を維持することに長けた人も世の中には沢山いますが、多分ここまで読んだ貴方は違うと思います。

 

なんだかんだトライアンドエラー

切っても捨てても次があるさ。

ここでタイトル回収する訳ですね。

「彼女欲しい!!」

どうも、おはようございます。お久しぶりのブログです。

 

昨晩はクリスマスイブでした。皆様、思い思いの夜を過ごされたとことと思います。ある方は友人とスマブラでもやっておられたでしょう。私は新キャラだとリドリーが好きです。またある方は、家族と楽しく過ごされたかと思います。プレゼント貰えましたか?

 

とはいえこれを見ているほぼ全ての方が大学生ないしはそれにあたる年齢であろうことを鑑みれば…宿屋の主人でなくても「ゆうべは  おたのしみでしたね」と言いたくなるような熱い夜を過ごした方が最も多いでしょうが。

 

いや、嫌味ではありません。嫉妬でもありません。「タイトルに願望漏れとるやんけ!!」?ちゃうねん。ちょう待ってぇな。

 

そもそも、タイトルは私のセリフではありません。私の大学の知り合いのセリフです。今回は(新幹線の車中が暇なので)、なぜ恋人が欲しいのか?そもそも、愛とは?的なことを考えていこうかと思い筆を取った次第です。

 

さて皆さん、恋人欲しいですか??

…………。

なるほど、欲しいか。そうかそうか。

…いや解決策は知りませんけども。そもそも私が疑問を抱いたのはまずこの「恋人が欲しい」という願望そのものです。

 

不肖私、齢20にして未だ恋を知りません。なんか最近自分が異常者なんじゃないかと思ってきましたが、それはさておき。そんな精神的ガキンチョからいたしますと、「誰々さんを恋人にしたい!」というのが自然な形に思えるのですが、如何でしょう?

 

わかりやすく順序立てますと、まず「誰々さんが好きだ!欲しい!(この表現が適切かどうかは分かりませんが)」という感情を抱き、「それに対して現代社会を鑑みると、恋人という関係性が適切だ!」という手段に気付くのではないかと。

「誰々が好きだ!欲しい!」が目的で、

「恋人になりたい!」が手段。

こういった関係が本来であるかと。

 

しかし、社会を(といっても所詮自分の身の回りの狭い範囲に過ぎませんが)見る限り、「恋人が欲しい!」という言葉は往々にして、特定の対象を取らずに用いられているように感じられます。この「特定の対象を取る」か否かが重要なのは決闘者(デュエリスト)でなくても分かることでしょう。遊戯王難しいよね。

 

対象を取らない「恋人が欲しい!」は、私の思い浮かべたそれとは異なるということです。より噛み砕いて、かつより失礼な言い方をすれば、「(誰でもいいから)恋人(という役割を全うしてくれる存在)が欲しい!」ということですから。

 

つまり、これどういう事でしょうか?手段とは結果です。因果応報という故事成語を紐解くまでもなく、結果がある以上は原因が、即ち目的があるはずです。

 

ここでは、「誰でもいいから恋人が欲しい!」という手段の目的は「愛されたい!(したい!)」だと仮定します。違うの思いついた人はブログ書いてくれ!お前らの投稿待ってるぜ!!

 

しかし、言葉は厳密に定義せねばなりません。「愛する(される)」とはつまり何を意味するのでしょうか?

 

まず、愛という言葉は非常に広範囲で用いられる言葉です。今回の「愛されたい!」というのは「満たされたい!」「受け入れられたい!」という願望であるように感じましたので(独断と偏見ですが)、そういった風に解釈します。そうです、サティスファクションです。今日遊戯王ネタ多いね。

 

そこで、ここでは曖昧模糊とした愛という言葉を5つに分類します。

情愛

友愛

敬愛

慈愛

自愛

の5つです。それぞれ考えていきましょう。

 

まず情愛です。これが最もオーソドックスな愛ではないかと思います。つまるところ、恋愛対象に対して抱く「愛」です。

社会制度にもよりますが、自分にとって特別な一個人、ないしは比較的少数に抱く愛です。この特別な個人は対等であったらそうでなかったり様々なパターンがあります。

私が知らないやつとも言います。

 

次に友愛です。

読んで字の如く、友に対して抱く愛です。一般には友情というそれですが、これも愛の一種と言えるでしょう。時として友との愛、即ち感情のやりとりが心を満たすことがあるのは事実です。

ここではこの「友」は対等な関係のことを指します。

 

次に敬愛と慈愛です。

これらは友愛と異なり、対等でない対象に対する愛です。敬愛は自分より上、慈愛は自分より下への愛という事です。例を挙げるとすれば、敬愛は親、先輩、上司、師匠、慈愛は子供、後輩、部下、弟子といったところでしょうか。

ここでの上下は非常に多様な範囲を取ります。当時の社会制度、個人の価値観に非常に左右されますから。全然定義できてねぇじゃんというツッコミは無視します。Don't think. feel.

 

最後は最もオーソドックスかつ最も軽視されやすく、最も私に馴染み深い自愛です。

自分に対する愛です。忘れがちですが、これもまた愛でしょう。自尊心やプライドとも言い換えられますし、自己肯定感とも言えます。

これは最も特殊な関係性です。対等という言葉でさえ不適当な絶対的一致、しかし間違いなく愛する主体と愛される客体があるという矛盾。まぁこれも感じてください。

 

以上5つが出揃ったところで最後に少し。私の定義ではこれらは「補完可能」です。ここ重要。

 

イメージとしては国語数学理科社会英語の5教科の点数でしょうか?心の満足という合格ラインは往々にして合計点だけで判断し得ます。敬愛が抱けずとも友愛がそれを補い得ます。情愛の欠けた穴を敬愛が満たす時もあるでしょう。

 

しかし、同時にそれらは全く別個のものでもあります。いくら合計点が400/500でも数学が0点なら先生が泣くでしょう。私は単に数学で0点とって高校の先生を泣かせたことがありますが。

つまり、どんなに埋め合わせたところで、ない事には変わらないという事です。たまに居ますよね、友愛足りてるのに自愛なさすぎてリスカする人。

 

さて、本題に戻りましょう。対象に取らない「恋人が欲しい!」の「愛されたい!」はなんなのか、という事ですが…私は「自愛、ないしはその他の欠乏を情愛で埋め合わせようとしているのでは?」と考えました。誰かに愛されたい、自分にさえ愛されない自分を愛してくれる誰かが欲しい。それが「恋人が欲しい!」の正体なのでは?と。

 

あくまで仮説です。多様な可能性があるでしょう。所詮一個人の視座に過ぎませんから、世界全てを理解できるはずもありません。しかし

、一個の可能性でもあります。

 

そこで、皆さんにもう一度お聞きします。

恋人、欲しいですか?

 

 

 

P.S. 極めて個人的な事ですが、上記の理論に乗っとれば、私が恋愛感情を抱かない事にも理由が付きます。「あまりに莫大な自愛が全てを補っていて、かつ、私の合格ラインは総合点でしか判断してない」という理由が。

 

あと、先ほど申し上げた5つの愛は全て正の値を取る時しか考慮してませんが、恐らく負の値を代入した場合も成り立ちます。

情憎

友憎

敬憎

慈憎

自憎

…発音しづらいことこの上ないですが、不思議なのはこれらも心を満たすことがある点です。もしかすると条件次第ではこれらの値は絶対値で評価するのかもしれませんね。

 

昔ある人が「愛の反対は無関心である」と言ったそうですが、私はやはり愛の反対は憎悪であると思います。とはいえ、これは簡単な違いでしかありません。愛を二進数で理解したならば1の逆は0、無関心でしょう。同様に十進数で理解すれば1の逆は-1。それだけの事です。数学的に突っ込むのやめてね。

 

精神的に向上心のないやつは馬鹿だ。

知らざるを知らずと為す、是知るなり、と大昔に孔子が言ったとか。

 

私のような未熟者がその意味を理解しきっているのかは疑問ですが、「自分には知っている限界が、世界には知らない事が果てなく広がっていて、それを弁えながら常に知ろうとする姿勢をこそ「知」と言う」という意味なのだと理解しています。

 

いわばその姿勢のない人間が「馬鹿」なのでしょう。まぁ、「こころ」の中でのこのセリフは、こんな字面通りの意味ではないと思いますが。

 

さて、ここまで書いておいてなんですが、今回の本題は「こころ」でも「孔子」でもありません。結局のところいつも通り、オタクによるオタクについての自戒的な文章です。

 

先日、「GODZILLA-星を喰う者-」を映画館で見て来ました。恐らくは大多数を占めるであろう、知らない人にこの作品がどんなものか説明いたしますと、特撮の看板とも言うべき「ゴジラ」ベースに、全編フルCGアニメーション、全3部作で綴られた全く新しい「ゴジラ」と言ったところでしょうか。

 

しかし、今回の本題はこの映画そのものではなく、その周囲についてです。私は基本的に作品について評判を調べる事はしません。視聴する前も、その後もです。これは社会と自分という個人を分けているからなのですが、そうは言ってもSNSを利用していれば自然と目にする事があります。

 

その中には多種多様、正負様々な意見があります。もちろん、それは当然の事です。平等ではなく自由を愛する現代一個人として、それは理解しています。

 

しかし、その中に引っかかる感想がありました。「俺たちが求めていたゴジラじゃない」と言うものです。ここで言う引っかかるとは、その意見が気に食わないとか、間違っているとかではありません。

 

その人の言わんとすることはこうです。「今回のアニメゴジラは、過去のゴジラ作品について詳しい人があまり関わっていない。それ故に、いわばお約束とも言うべきポイントを踏めていない。だから自分の求めていたゴジラではなかったし、つまらなかった」

 

なるほど確かに、その人の言うことは的外れではありません。今回の制作陣には、ゴジラを全く知らない観客の視点を取り入れるために、ゴジラ作品に詳しくない人が加わっていることは事実です。また、私自身も幼い頃からゴジラ作品を視聴しており、原水爆への風刺としてのゴジラも、シェーをして大衆ウケを狙うゴジラも、ハム太郎と同時上映するゴジラも知っています。その上で、確かに今回の作品は既存の「ゴジラらしさ」は薄く、或いは一見すると分かりにくくされていると感じました。

 

しかし、しかし「だからつまらない、期待外れだ」というのは実に悲しい感想だと思うのです。なぜならこれはデジタルリマスター版でも、リバイバル上映でもなく、新たなゴジラなのですから。違って当たり前、新しくて当然です。そこに以前と同じ共感を持ち込もうとすれば拒絶反応を起こすのは、むしろ自然とさえ言えるでしょう。

 

そして気づきました。結局のところ、この人は新しいものを受け入れる姿勢がないのだ、と。そして、それはあらゆる人に起こりうる停滞であり、諦観なのだ、と。

 

過去の作品に固執して、新たな作品という地平を開こうとしない事。それは正に精神的に向上心がないという事でしょう。それはある種の正解であり、楽な生き方です。自分の心を平らにして、新しいことを受け流す。そうしながら過去を振り返り、あの頃は良かったと思いを馳せる。それは、寧ろ現代社会では推奨される生き方でさえあるかもしれません。

 

そしてそれは老若男女問わず持ちうる性質です。知的好奇心の放棄は、人に停滞という安寧をもたらすと言えます。

 

ですが、私は、私自身にそうあれと願う事はありません。出来ないと言ってもいいでしょう。今現在の私にとってそれは堕落であり、怠惰であり、自殺です。断じて許容できないものです。

 

その一方で、安定を求める気持ちがわからないわけでもないのです。どんなに心がかくあれかしと願えども、体は勝手に年を取り、頭は「慣れ」という形で日々を脱色してしまいます。おお、記憶の中の幼稚園児の私の、世界のなんと色鮮やかな事か!常識という鎖に繋がれた今の私には、「ワンチャン食えるかも知れんな」と砂を口に含む、その好奇心は発露し得ない……!!このまま年を取り続ければ、さらにその傾向は自然と増していく事でしょう。

 

なーんて、絶望的な気持ちになっていたのですが。仮にそれが事実だとしても、出来うる限りの知的好奇心を奮い立たせ続ける事こそ、向上心と言うのでは?そこまで楽観できないものの、悲観する必要はないのでは?などと根が単純な私はすぐ立ち直ってしまいましたとさ、というお話でした。いつまでもオタクでいられますように、と他ならぬ自分に願った所で終わりにしたいと思います。

 

P.S 「GODZILLA-星を喰う者-」は現在絶賛上映中!また、第1部、第2部についてもNetflixで配信中です!大変面白く、テーマ性があり、それでいて前述の通り予備知識の必要が薄いため、是非今からでもご覧になってください!

 

それから、これを書くにあたり本棚を探した所、「こころ」が二冊見つかりました。ごめんよ高校同期の誰か。パクったっぽいわ。

 

1人でオンラインゲームってなんだよ

スマブラの新作が出るらしいですね。亜空の使者的な1人用モードも付いているとか。…うーん1人で大乱闘とはこれいかに。

 

皆さんはスマブラにどんなイメージをお持ちでしょうか?まぁ、ここで「クラウドはクソ」とか「ベヨネッタやめろ」とか「ゼロスーツサムス桜井のオリキャラじゃね?」とか言う人はブラウザバックしていただくとして、概ね「友達の家でやった」とかそんな感じでしょう。嗚呼懐かしき小学生の日々。

 

かく言う私もそういう懐かしさを覚えます。Wiiのある友人の家ではスマブラとマリカが定番でした。反面私はずっとPSユーザーでしたので自宅でやった事はありません。…嘘です、初代実家ゲームはセガサターンでした。バーチャロンいいよね…。

 

でも、よく考えてみると不思議なものです。スマブラ任天堂オールスター大集合と銘打つだけあって様々なキャラクターが登場します。しかし、マリオやカービィはともかく、アイクやキャプテンファルコンなんて、小学生が元ゲームを知っているとは思えません。メトロイドが好きでサムス選ぶ小学生とか怖すぎる。

 

加えて、ゲームシステムも意外に複雑です。こう言ったゲームにありがちな体力ゲージ制ではなく、吹っ飛び率なる謎パーセンテージ。しかも別に100パーセントで死ぬわけでもないし。強弱攻撃にガードに回避にステップやらなんやら、キャラ固有の操作も多かったですね。

 

こうして振り返ると、とてもあの日の自分がスマブラを100%楽しめていたとは思えません。ひたすらスネークでローリングしてましたし、下手すればスマッシュ攻撃さえ理解してなかったのでは。でも楽しかったのは事実なんですよね…。

 

きっと、「スマブラが楽しかった」んじゃないんですよね。「スマブラをみんなとやるのが楽しかった」んです。

 

しかし、こうして考えると、あらゆる事に当てはまるのかも知れません。物事1つ取っても、それに付随してありとあらゆる要素が芋蔓式に浮かび上がってきます。人は社会的な生物ですから、誰とも共有していない、自分だけの物事なんてものは存在しないのかも知れません。

 

思えば、今の自分の毎日にも、過去の色んな人が介在していますね。週2ペースで通っているゲーセンの三国志大戦も、そもそもは小学生の頃の友達のマジコン(当時はマジコン全盛期でした。良い子は真似しないでね!)に入っていたDS移植版をやったのが初めてですし、そもそもこのブログも幼女先輩(注:ここでは高校時代に出会った友人のみを指す)のブログに触発されたからですし。

 

今、大きくなった私は故郷に住んではいません。スマブラの新作を同じメンツでやる事もないでしょう。小学生オールスター大集合とは行かないと思うと少し寂しいような。

 

なーんてね、あの頃の友達とはまた別の思い出を作っていくでしょう。そういうもんですよ。

 

 

 

PS.一時停止の時のカメラ操作を使ってピーチ姫のパンツを見ようとしたことがある人はコメントしていけ。

老いるとは。

別にこのタイトルは何かのオマージュではありません。それにしても20歳の書くタイトルじゃねぇなぁ…

 

先日、近くの映画館で「あの花」(あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。)のリバイバル上映を観てきました。

 

いやぁ、泣きましたね!上映中ずっと泣いていた映画など後にも先にもこれだけでしょう。意外に思うかもしれませんが、私も鬼ではないので泣くことができるんですよ。

 

とまぁこれ以上は、ただの「secret base」を聞くだけで涙腺が決壊するオタクの話になってしまうので本題に入ります。

 

老いる、って言葉にみなさんはどんなイメージを持ちますか?私はこの言葉が嫌いでした。老いるとは劣る事であり、退行する事であり、忘れる事であり、極め付けに死に近づく事ですから。

 

夏目漱石の「こころ」ではありませんが、自らの精神が衰えつつあるなど、ましてやそれを認めるなど、自分には受け入れがたい事です。どんなに緩やかでも、人が人としてある為には自分の加速度を正に保たなければ。人は常に進歩し続ける事で、いつか星々の果てにまで手が届くはず。それが私の考え方なのです。

 

しかし、ふと思ったのです。それだけではないのだと。

 

私が初めて「あの花」を知ったのは中学生の時でした。その時も号泣した覚えがあります。思えばそれからはや5年。いつのまにかじんたん達より年上になり、あの日の自分はまるでめんまのよう。…いや、そんなに可愛くないですね。クソガキでしたね。

 

しかし、5年という月日は残酷です。日々の中で記憶は薄れ、「あの花」の内容の全てを思い出すことは出来なくなりました。後には「あの花」で感動し、泣いたという、その記録だけが残りました。

 

ですが、ふと思ったのです。だとしても、思い出は美しいのではないかと。

 

時間は、まるで川の流れのように、止まることはありません。どんなに悔やんでも、その流れは変わりません。そして、その流れの中で思い出という石は削られ、欠け、小さくなっていきます。どんな巌も、いつかさざれ石となる様に。

 

しかし、それは失うことなのでしょうか。以前の私にとってはそうでした。しかし、今は違って思えます。思い出は、それ故に美しいのです。さながら、川の流れに揉まれた石が滑らかな丸石になる様に。

 

5年の時を経て再び出会った「あの花」はとても美しかったです。でも、この涙はきっと、5年前の私が流した涙とは異なるのでしょう。あの日の私を、今の私は思い出せません。だからこそ、泣いて良かったと思うのです。

 

老いるとは、劣る事であり、退行する事であり、そして、忘れる事です。でも、忘れる事は、失う事ではありませんでした。

 

そしていつか、この思い出はさらに削れ、欠け、いつかは思い出せないほどに小さくなるのでしょう。それでいいのです。それらは流した涙に溶け、いつか自分自身という続いて行く川の一滴になるのでしょうから。その時初めて、私の一部になるのかもしれません。

 

そんな二十歳の夜でした。

 

哲学しても一人。

いや、むしろ一人である方が多数派かも知れませんが。

 

さて、私にとっての、ブログにおける先達である幼女さんより、「哲学して」というお願いが届きました。2週間近く前に。(訂正!書いてる間に3週間から1ヶ月近くになりました!許せサスケ…)

 

で、それを受けまして。せっかくですから今回は真面目な話をば。

 

そもそも、哲学とはなんなのでしょうか。勿論、辞書を引けばある種の答えは得られますが、それを述べるのは私の役割ではないでしょう。

 

学問とは、恐らくは「学び問い詰める」から学問と書くのでしょう。では哲学という学問は何を問い詰めるのか?私は、生きる意味・目標を問うのだと思います。言うなればアンパンマンですね。何の為に生まれて、何をして生きるのか。それを分からないままに終わるのが嫌だから、答えを模索するんでしょう。

 

と!高校生の頃くらいまでは思っていたのですが!最近少し考えが変わりました。いや、考えが増えた、という方が正確ですね。と言うのも、学問というものは体系化された、普遍的なものでなければなりません。全ての幼稚園児が独自の文字を用いていては、とても小学校は機能しないでしょう。ひらがなカタカナという一般化された文字を強制するのは、でなければ学問として成立しないからなのでは?

 

つまり、自分の生きる意味を見出すだけでは哲学とは呼べないのです。自分の答えを探すのではなく、みんなの答えを探さなければならない。その意味で、私はこれまで一度たりとも哲学をした事はありませんでした。

 

実は、自分にとっての答えを見つけるというのはそこまで難易度が高いとは限りません。私の場合は20歳以前に、およそ自分の直面するほぼ全ての問題に対処しうる答えを見出せてしまえました。後はうん十年かけて答え合わせと添削をしていけばいい訳です。

 

ですが、前述の通りからは学問とはなり得ません。一般性に欠けます。そこで、この自分の答えがどこまで社会一般に拡大しうるのかを考えなければなりません。

 

私の答えとは大雑把に言えばこうです。

なぜ生きるのか?それは笑い、楽しみ、幸福であるためです。

ではそれらはどう定義されるのか?その基準は二つあります。

その二つとは?個人的意味と社会的価値です。

個人的意味とは?私という独立した個の自我が欲求するものです。

社会的価値とは?私という集団に属する自我が必要とするものです。

具体的には?三国志を読む。これは社会一般、あるいは私の属する大学では重んじられませんが、私個人には大変面白く、個人的意味があると言えます。

お金を稼ぐ。これは私個人にとっては、間接的に個人的意味を果たすのにほぼ必須と言える事を除けば、意味のない行為です。ただの紙切れですから。しかし、資本主義社会の一構成員である私には必要不可欠であるため、社会的価値があると言えます。

多くの物事はこれらの二つに対し、異なる重さを持っています。意味はあるけど、価値はない。意味はないが、価値はある。意味も価値も兼ね備える。意味も価値もない。そういう風に世の中のものはほぼ全て、この二つの、「独立した」天秤で計れる。それが私の答えです。

 

よく、「愛とお金どっちを取るか?」というような問いが、まるで究極の二択であるかのように提示されます。しかし、これは私の答えに基づけば、「難しい」のではなく「問いとして破綻している」のです。愛は個人的意味によります。お金は社会的価値によります。別の天秤に乗った物の重さが比べられるはずもありません。強いて言うのならば、天秤の重さを問われているとも受け取れますが、天秤を計れる天秤があるのなら、その大天秤がハナから愛とお金を測ればいいのです。でも私の答えではそれは必要ありません。

 

大天秤無くして、如何に正しい判断が下せようか!そう考える方も多いでしょう。ですが、私はそもそもその正しさを追求する事が幸福に繋がるとは思いません。人の一生は長く、世界は果てしなく広いです。自分の出した答えが正解だったのか?それに気づくのは死の間際かもしれません。死してなお、分からないかもしれません。

 

私は、幸福とは正しい事ではなく、後悔しない事によって得られると思うのです。後悔とはすなわち迷いです。あの時こうしていれば。あんなことをしなければ。これが後悔の正体でしょう。それは、自身の判断基準が曖昧だから起こる「揺らぎ」です。

 

しかし、もし明確な判断を下す天秤があったなら?もちろん失敗はするでしょう。大切なものを失うかも知れない。しかし、後悔はせずに済むでしょう。「それでも、私はあの時、こう思って選択したのだ」と言い切れることこそが、後悔を断つのだと私は考えます。

 

と、まぁつらつらと書き連ねてきた訳ですが。これは私の答えにすぎません。特に、後悔なき幸福の辺りからは完全に自分に特化した回答でしょう。しかし、意味と価値についてはある程度社会一般に通用すると考えています。なぜなら、この部分は私が私だけでなく周囲の人、即ち社会一般から見出した回答だからです。誰もが判断に迷う時、そもそも異なる判断基準を比べているのではないか?という疑問に基づくものだからです。

 

よってここを社会一般に拡大したい訳ですが、ここで個人的意味は脱落します。理由は単純。あまりに個人差が大きいからですね。人殺しが楽しい!みたいなサイコパスの個人的意味まで考えていては一般的な学問たり得ません。よって、社会的価値について話を広げます。ずいぶん小さくなったなぁ。

 

と、言ったところで今回はここまでで。本当は社会的価値の拡大についても書きたかったのですが、これ以上長文になると読むのが大変でしょう。私はこのブログに主に「今現在の自分の興味を綴る」という個人的意味を見出していますが、同時に「自分という存在を肯定/批判することにより誰かの考えが深まる」という読者を想定した社会的価値も見出していますので、疲れた皆様に配慮して一旦筆を置きます。

 

…あぁ、疲れた。