うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

「彼女欲しい!!」

どうも、おはようございます。お久しぶりのブログです。

 

昨晩はクリスマスイブでした。皆様、思い思いの夜を過ごされたとことと思います。ある方は友人とスマブラでもやっておられたでしょう。私は新キャラだとリドリーが好きです。またある方は、家族と楽しく過ごされたかと思います。プレゼント貰えましたか?

 

とはいえこれを見ているほぼ全ての方が大学生ないしはそれにあたる年齢であろうことを鑑みれば…宿屋の主人でなくても「ゆうべは  おたのしみでしたね」と言いたくなるような熱い夜を過ごした方が最も多いでしょうが。

 

いや、嫌味ではありません。嫉妬でもありません。「タイトルに願望漏れとるやんけ!!」?ちゃうねん。ちょう待ってぇな。

 

そもそも、タイトルは私のセリフではありません。私の大学の知り合いのセリフです。今回は(新幹線の車中が暇なので)、なぜ恋人が欲しいのか?そもそも、愛とは?的なことを考えていこうかと思い筆を取った次第です。

 

さて皆さん、恋人欲しいですか??

…………。

なるほど、欲しいか。そうかそうか。

…いや解決策は知りませんけども。そもそも私が疑問を抱いたのはまずこの「恋人が欲しい」という願望そのものです。

 

不肖私、齢20にして未だ恋を知りません。なんか最近自分が異常者なんじゃないかと思ってきましたが、それはさておき。そんな精神的ガキンチョからいたしますと、「誰々さんを恋人にしたい!」というのが自然な形に思えるのですが、如何でしょう?

 

わかりやすく順序立てますと、まず「誰々さんが好きだ!欲しい!(この表現が適切かどうかは分かりませんが)」という感情を抱き、「それに対して現代社会を鑑みると、恋人という関係性が適切だ!」という手段に気付くのではないかと。

「誰々が好きだ!欲しい!」が目的で、

「恋人になりたい!」が手段。

こういった関係が本来であるかと。

 

しかし、社会を(といっても所詮自分の身の回りの狭い範囲に過ぎませんが)見る限り、「恋人が欲しい!」という言葉は往々にして、特定の対象を取らずに用いられているように感じられます。この「特定の対象を取る」か否かが重要なのは決闘者(デュエリスト)でなくても分かることでしょう。遊戯王難しいよね。

 

対象を取らない「恋人が欲しい!」は、私の思い浮かべたそれとは異なるということです。より噛み砕いて、かつより失礼な言い方をすれば、「(誰でもいいから)恋人(という役割を全うしてくれる存在)が欲しい!」ということですから。

 

つまり、これどういう事でしょうか?手段とは結果です。因果応報という故事成語を紐解くまでもなく、結果がある以上は原因が、即ち目的があるはずです。

 

ここでは、「誰でもいいから恋人が欲しい!」という手段の目的は「愛されたい!(したい!)」だと仮定します。違うの思いついた人はブログ書いてくれ!お前らの投稿待ってるぜ!!

 

しかし、言葉は厳密に定義せねばなりません。「愛する(される)」とはつまり何を意味するのでしょうか?

 

まず、愛という言葉は非常に広範囲で用いられる言葉です。今回の「愛されたい!」というのは「満たされたい!」「受け入れられたい!」という願望であるように感じましたので(独断と偏見ですが)、そういった風に解釈します。そうです、サティスファクションです。今日遊戯王ネタ多いね。

 

そこで、ここでは曖昧模糊とした愛という言葉を5つに分類します。

情愛

友愛

敬愛

慈愛

自愛

の5つです。それぞれ考えていきましょう。

 

まず情愛です。これが最もオーソドックスな愛ではないかと思います。つまるところ、恋愛対象に対して抱く「愛」です。

社会制度にもよりますが、自分にとって特別な一個人、ないしは比較的少数に抱く愛です。この特別な個人は対等であったらそうでなかったり様々なパターンがあります。

私が知らないやつとも言います。

 

次に友愛です。

読んで字の如く、友に対して抱く愛です。一般には友情というそれですが、これも愛の一種と言えるでしょう。時として友との愛、即ち感情のやりとりが心を満たすことがあるのは事実です。

ここではこの「友」は対等な関係のことを指します。

 

次に敬愛と慈愛です。

これらは友愛と異なり、対等でない対象に対する愛です。敬愛は自分より上、慈愛は自分より下への愛という事です。例を挙げるとすれば、敬愛は親、先輩、上司、師匠、慈愛は子供、後輩、部下、弟子といったところでしょうか。

ここでの上下は非常に多様な範囲を取ります。当時の社会制度、個人の価値観に非常に左右されますから。全然定義できてねぇじゃんというツッコミは無視します。Don't think. feel.

 

最後は最もオーソドックスかつ最も軽視されやすく、最も私に馴染み深い自愛です。

自分に対する愛です。忘れがちですが、これもまた愛でしょう。自尊心やプライドとも言い換えられますし、自己肯定感とも言えます。

これは最も特殊な関係性です。対等という言葉でさえ不適当な絶対的一致、しかし間違いなく愛する主体と愛される客体があるという矛盾。まぁこれも感じてください。

 

以上5つが出揃ったところで最後に少し。私の定義ではこれらは「補完可能」です。ここ重要。

 

イメージとしては国語数学理科社会英語の5教科の点数でしょうか?心の満足という合格ラインは往々にして合計点だけで判断し得ます。敬愛が抱けずとも友愛がそれを補い得ます。情愛の欠けた穴を敬愛が満たす時もあるでしょう。

 

しかし、同時にそれらは全く別個のものでもあります。いくら合計点が400/500でも数学が0点なら先生が泣くでしょう。私は単に数学で0点とって高校の先生を泣かせたことがありますが。

つまり、どんなに埋め合わせたところで、ない事には変わらないという事です。たまに居ますよね、友愛足りてるのに自愛なさすぎてリスカする人。

 

さて、本題に戻りましょう。対象に取らない「恋人が欲しい!」の「愛されたい!」はなんなのか、という事ですが…私は「自愛、ないしはその他の欠乏を情愛で埋め合わせようとしているのでは?」と考えました。誰かに愛されたい、自分にさえ愛されない自分を愛してくれる誰かが欲しい。それが「恋人が欲しい!」の正体なのでは?と。

 

あくまで仮説です。多様な可能性があるでしょう。所詮一個人の視座に過ぎませんから、世界全てを理解できるはずもありません。しかし

、一個の可能性でもあります。

 

そこで、皆さんにもう一度お聞きします。

恋人、欲しいですか?

 

 

 

P.S. 極めて個人的な事ですが、上記の理論に乗っとれば、私が恋愛感情を抱かない事にも理由が付きます。「あまりに莫大な自愛が全てを補っていて、かつ、私の合格ラインは総合点でしか判断してない」という理由が。

 

あと、先ほど申し上げた5つの愛は全て正の値を取る時しか考慮してませんが、恐らく負の値を代入した場合も成り立ちます。

情憎

友憎

敬憎

慈憎

自憎

…発音しづらいことこの上ないですが、不思議なのはこれらも心を満たすことがある点です。もしかすると条件次第ではこれらの値は絶対値で評価するのかもしれませんね。

 

昔ある人が「愛の反対は無関心である」と言ったそうですが、私はやはり愛の反対は憎悪であると思います。とはいえ、これは簡単な違いでしかありません。愛を二進数で理解したならば1の逆は0、無関心でしょう。同様に十進数で理解すれば1の逆は-1。それだけの事です。数学的に突っ込むのやめてね。