うさ日記

憂さ晴らしに書くのかもしれません

8について。

米津玄師良いですよね。ピースサインが好きです。ただ僕のヒーローアカデミアが好きなだけかもしれませんけど。あと春雷。

 

さて、8です。

8は始めと終わりが一致する文字という事で、自分のブログを始めから読み直してみようと思ってたんですが「こいつ文章は稚拙やけどめっちゃええこと言うな〜誰が書いたんや〜?俺かーーー!!!!!」という自画自賛を書き連ねてもしょうがない事に今気づいたので、冗談のつもりだった米津玄師の話をしようかと。

 

もう2月に入っているのでちょっと遅いですが、年末年始はカラオケに行く機会の多いシーズンですね。私と同い年の方は成人式、同窓会でもカラオケチャンスがあったと思います。カラオケというのは不思議な場で、自分の知りもしない曲をタイトル歌手歌詞全部の情報とともに叩きつけられるという機会は他にはなかなか無いのではないでしょうか。私、ハチは知っていても米津玄師が分からないというロートルでして、lemonとか全然歌詞分からなかったんですよね。しょうがないだろアンナチュラルとか見てねぇよ、最後に見たドラマは真田丸だよ。

 

で、他にもアイネクライネとか色々をYouTubeのMVで聞きまして。前述の通りピースサインとか大変好きなんですけども。いや全体的に歌詞暗くない!?暗いですよね!?lemonとか「ゲェーッ!死に別れとるやんけーッ!」ってなりますよね!?

 

ドーナツホールとかもそうですよ。よくMMDでまるで関係のないキャラクターが踊ってたりしますけど、あんなん「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」みたいなもんですよ。何が言いたいかというと、自分も含めてどう考えても感情移入出来るだけの経験積んでないのに、なんでこれらの曲を好きになるんだろう、という話なんですよ。

 

歌というのは特殊です。例えば、自分の全く経験していない情報という意味では小説なども同様ですね?丁度目の前に「こころ」が有ったので例に挙げると、私には過去の積み重ねて来た理想と現在の感情の乖離で未来が見通せなくなった絶望で自殺する友人(※個人の読解です)は居ません。が、大変面白い小説だったと思うことができます。これは私が、私の中にインストールされた先生やその他の人物を主体として彼らの感情を理解できるからです。しかし、音楽は違います。歌詞は音楽に合わせなければならない以上、情報量が極端に制限されます。数分のうちに何人ものキャラクターの身の上やら関係やらを説明するのは不可能です。それ故に、歌詞は「ぼく」「わたし」「あなた」「おまえ」といった言葉を使います。そうなると、先ほどのように歌詞の情報の中からキャラクターを自分の中にインストールして…とは行きません。行かない以上、そこには生身の自分がいる、はずです。でも自分にそんな経験は無い…。

 

これは、私個人に限った場合はすぐ答えが出ます。私は幼稚園の頃からお話を妄想する事が大好きなオタク君ですから、曲の情報を拡大解釈してストーリー仕立ての映像を作ったりするんです。脳内で。例えばピースサインならヒロアカのMADになりますし、ゴーゴー幽霊船ならストレートに「妖怪のクラスメートが夜な夜な窓から空の雲の上の妖怪幽霊船(有頂天家族的な)のどんちゃん騒ぎに攫いに来る」映像が思いつくわけです。そうやって、「ぼく」に形を与えちゃうんです。でも、どうやら妄想ってのは陰気な人間の専売特許だそうじゃないですか。そうなると世の中の皆様は概ね妄想なんかしないはず。じゃあこの歌詞から溢れる感情を生身の心で受け止めてるのか!?アイネクライネとか!?鋼のハートかよ。

 

とまぁ、結局何が言いたいかと言いますと、みんななんで米津玄師好きなん?って事です。誰か俺に教えてくれ。

 

そんな事を考えた1日でした。

777について。

シナリオアートさんのナナヒツジっていい曲ですよね。KANA-BOONのtalkingと合わせてどうぞ。

 

「もしかしてご飯を作る前の時間にブログを書けば時計とチキンレースしなくて済むのでは…?」と7日目にしてようやく気づきました。偉い。そんなこんなで午後7時ごろに書いているのですが、今度は炊飯器とチキンレースしています。偉くない。

 

さて、7です。

7といえばラッキーナンバー、なんとなく幸運のイメージがある数字ですね。私も一盃口見据えつつ最終的に七対子でテンパったら八萬より七萬で待ちます。素人なのでこれで合ってるかは知りませんが。むしろ麻雀なら中国の考え方に則って、末広がりで縁起が良いとされる八で待つ方がいいような気もしますね。

 

それはともかく。ラッキーとはなんでしょうか。人はよく「幸運」という言葉を使います。運良くテストの山が当たった。幸運にも事故から生き残った。そして逆もまた然り。運悪く先生に見つかった。不幸にも犬のフンを踏んだ。ですが、運などというものが本当に存在するのでしょうか?幸運や不運を言い訳にするとき、私たちはそれ以外の結末を知りません。今目の前にある結果が運に左右されたものなのか、それともそれ以外の要因によるものなのか。それは本来複数の結果が無ければ判断し得ない筈です。しかし私たちは運という言葉で処理してしまいます。

 

多分、運って言い訳なんですよ。良かったことに対しても悪かったことに対しても、それら全てが理屈で説明できて欲しくない、不確実性があって欲しいという願いなんですよ。そういう優しさみたいなものが運なんだと思うんです。

 

そんな事を考えてたら結局この時間になった1日でした。

6について。

現在2/6日が残り45分を割り大変焦っております。それもこれもエースコンバット7が面白いのが悪い。あっこれ明日書けば良かった…。

 

さて、6です。

今日一日私自身の中で6について色々連装ゲームをしてみたのですが、何故かダイヤモンドが連想されました。何故でしょうね?記憶が定かなら黒鉛は正六角形の層構造で、ダイヤモンドは正四面体のみで構成されたような見た目だった気がしますが。

 

ともあれ時間もありませんので、ダイヤモンドから話を広げていくとしましょう。ダイヤモンドというと宝飾や工業ばかりに目が行きがちですが、最近は面白いところでもその名前を聞くようになりました。葬式です。遺骨、遺灰などからダイヤモンドを作り、故人を偲ぶ気持ちを永遠のものにする…。なんとロマンチックなんでしょうか。まぁ私がこれを知ったのはMetal Gear Solid V なんですけども。

 

しかし、人は何故葬式を行うのでしょう。火葬だろうが土葬だろうが、ダイヤモンド葬だろうがなんだろうが、ともかく私の知る限り世界中のあらゆる文化圏で死者を弔う行事が行われています。アフリカの方では故人の肉を食うとかあったような気もしますね。それが原因で感染症が広がったとか。…脇道に逸れました。

 

私は未だに葬式というものに出席した事がありません。というより、身近な人の死に直面した事がありません。ですので、実体験としては何故葬式をやるのか分かりませんし、人の死を弔う気持ちもその思いも知りません。しかし、愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶというビスマルクの言葉にもあるように、人は自分の経験以外からも学べるはずです。私も出来れば賢者になりたいので、ここは他者から情報を取り入れるとしましょう。

 

そこで思い出したのが…ガンダムなんですね〜ガンダムなんですよ。「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」という作品がありまして、その中で主人公達が仲間の葬式をやる、という回がありました。

 

当初、主人公達の意見は割れます。「葬式をすることで死んでいった仲間達の魂が安らかに眠れるなら、したい。」「いや、葬式なんて金が余計にかかるだけ、今はそんなことをしてる場合じゃないだろう。」一度は反対派の意見が通りますが、その後外部のキャラクターが反対派のキャラクターにこう言います。「葬式ってね、生きてる人のためにもあるのよ」と。

 

葬式は故人がメインです。しかし、故人がそれで喜んだり悲しんだりする訳ではありません。生きている人間が、亡くなった人に対するいろんな想いに区切りを付ける為の行事。それが葬式なのでしょう。そしてそれは世界中の、どんなに異なる文化圏の人々にもおおよそ共通する思いなのかも知れません。さながら世界中に点在する鳥類が、その分化の際に得たであろう「翼を持つ」という点で共通しているように、世界中で発生した全く異なる文化が「弔う」という点で共通しているのは、それが人間の文化・社会にとって極めて原始的な過程だからなのかも知れませんね。いやむしろ「弔う」という、一種の喪失による共感から社会が形成されたのかも知れません。もしそうだとしたら、とてもロマンチックではないですか?

 

そんなことを考えた1日でした。

5について。

5…5…5機のガンダムガンダムSEED…嘘です。流石にそれはしません。でもサイクロプスが起動した時のパイロット破裂シーンはグロかったですよね。

 

さて、5です。

早速ですが皆さんにクイズです。犬公方と呼ばれ、生類憐みの令で知られる徳川第「五」代将軍は?

 

 

徳川綱吉ですね。まぁ義務教育レベルの簡単な質問でした。ちなみにしておいていうのもなんですが、私はこの「〜をした人は誰々」という覚え方は身にならないと思います。なぜ、どのように、が欠けていては理解したとはいえないのではないでしょうか。「この事件の犯人はお前だ!」だけしか言わない探偵物とか意味ないでしょ。

 

というわけで、今回は動物愛護的な話をしようかと思います。

まず初めに。私は自分の共感できないものを調べるのが好きです。うーん隙あらば自分語り。よく日本語では一緒くたにされがちですが、私は理解と共感は全くの別物だと思います。その人の言っていることに筋の通った理屈があると思えるか否かが理解の是非であり、その人の言っていることを自分が感情的に肯定できるか否かが共感の是非だと思います。例えば私は洋菓子が好きな人の言っていることに共感はできませんが、甘くて美味しいというのは理解できるといった具合に。

 

その共感できないものを物色していた際に、ヴィーガンという人々のことを知りました。ヴィーガンとは日本語で言うと絶対菜食主義となるそうですが、調べた感じ一概にそうとは言えないようです。ヴィーガンを標榜する人の中でもそのストイックさは千差万別で、一切動物を利用した製品も肉食もしないよ!という人もいれば、極力減らすよ程度の人も居るようでした。

 

ヴィーガニズムの根幹にあるのは、これもまた人によって言っていたことが違ったのであくまで私の所感に過ぎませんが、動物にも権利がある!という考え方です。動物は人間と同じように苦痛や喜びを感じるのだから、人間と同じように苦痛を受けず幸福で居る権利があるということですね。

 

この考えに基づき彼らは生活しているわけです。特に欧米では盛んで、ヴィーガン用のレストランなどもあるそうですね。私は高校時代に食べた精進料理に対し「野菜なんだったら正直に野菜の姿で出てこいよぉ!肉のフリなんかしねぇでよぉ!!」と憤った思い出があり、精進量には対する苦手意識があるのですが、こういったレストランには少し興味があります。

 

と、ここまでが理解した事です。前述した通り、私はヴィーガンに対しなんら共感できません。私にとって権利とは、痛みや幸福を感じるという能力があるから与えられているものではありません。人は他者の自由を害さない範囲で最大限の自由という権利を持つ、というのが私の理想とする社会理念であり、この「他者の自由を害さない範囲」を具体的に定めたものが法だと思っています。その点、日本は結構良い社会なんじゃないかと思うんですがまぁそれはそれとして。例えばライオンはお腹が空けば私を食べるでしょう。これは私の身体の自由を害します。アライグマが私の畑の作物を食い散らかせば、それは私の財産の自由を害します。動物たちは我々の社会におけるルールを守らない、故に人間と同じ権利を持つには値しない…、という事です。

 

てな感じで「ああ〜理解できるわ〜」「いやそれは共感できんな〜」みたいなことを日々調べてるわけですが、その考えがどんなものであるかによらず大切なことがあります。それは、「※個人の感想です。」という事です。私の考えは私の考え。ヴィーガンの考えはヴィーガンの考え。そこに上下関係も、どちらが正しくどちらが間違いという事もありません。ただ、違うのです。個人の主義思想は絶対不可侵、もし許容できないような人がいれば、そっと離れれば良いのです。勿論、法に触れたら駄目ですけどね。

 

そう考えると社会というのは非常に面白いですね。例えば日本社会ではほぼ全員がごく自然に資本主義を受け入れています。そういう意味では一様なように見えますが、反面細かな差異は内包されたままです。ジャンプ派マガジン派、たけのこ派きのこ派…。本当の意味であらゆる主義主張が一致する他人など存在しません。これをあくまで人は孤独だと捉えるか、それともその揺らぎに人々の相互理解の可能性を見出すかは貴方、そして私次第なのでしょう。

 

そんな事を考えた1日でした。

4につい…て?

正直に先に言います。今日全然4と関係ないですし、「人間は〜」的な説教じみた話もありません。ちなみに当初の予定では4は2月ということも鑑みて閏年の事を話すつもりでした。4の倍数は閏年で100の倍数は閏年じゃなくて400の倍数は閏年、というルールはどのようにして決められたのか?とか調べる気でした。

 

さて、4です。

西暦2307年、4機のガンダムが武力による紛争根絶を掲げ世界に戦いを挑む…。あっ今回の4要素終わりです。そんな訳で、今回はある友人の言葉もあって、「機動戦士ガンダム00」について、特にMSについて駄弁るだけです。作品そのものについて話すととても長いので…。

 

まずいきなりぶっ込みますけど、ティエレンかっこよくないですか?フラッグやイナクトも他の作品に見られない独特な造形でスタイリッシュな所がいいとは思いますが、いかにも兵器然としたティエレンの戦車にも通ずる無骨なフォルムは男の子心に直撃しますよね!?特に、三大国合同演習の時にちらっと出てきたティエレン長距離砲撃仕様なんかは0083のザメルに似た歪な美しさがあると思います。やっぱり私みたいなガノタは装備や仕様のバリエーションの多いMSに惹かれる運命にあるんですよ。

 

バリエーションといえばジンクスシリーズとそれに連なるスローネ系列の機体も好きです。ヤークトアルケーみたいなコンセプト盛り盛りな機体が好みですね。ゼクツヴァイみたいな感じ。

 

ソレスタルビーイング側の機体だとサバーニャが好きですね、ゴテゴテしてて。まぁ結局のところゴテゴテしてるのが好きなんですよ。あとGNアーマー。なぜってゴテゴテしてるからね。

 

とまぁここまで好きなMSについて書いてきたんですけど、たったの700文字程度しか書けませんでした。ガノタを名乗っておきながらそんなもんかよと言われそうですが、むしろ「◯◯いいよね…」「いい…」みたいなアレです。多くは語らぬ。嘘です。どうもネット上だとコミュ障になりがち。

 

それはそれとして、初放映から10年経っても未だ新展開を見せる機動戦士ガンダムOOから目が離せませんね。ね。

 

そんな事を考えた1日でした。

 

PS  閏年が四年に一度あるのは、公転のペースが厳密には365日よりちょっと長いからで、その辻褄合わせに四苦八苦したせいであんな例外が生まれたそうです。意外と面白味のない想像通りの結果だったので、多分こっち路線だったら1600年の関ヶ原の戦いについてとか話してたと思います。

 

 

3について!!!

皆さん、3といえば!?もうピンときてますね?来てない!?このブログのURLをもう一度ご覧になってください!そう、いや三千五百九十四ではなく!さん・ご・く・し、三国志ですよ!!!

 

さて、3です。

三国志は紀元200年ごろが舞台の歴史書ですが、一口に三国志といっても種類があります。紀元200年代に陳寿という役人がまとめた史実に忠実な歴史書三国志」と、後に作られ物語として完成度の高い「三国志演義」の2つです。

 

これら2つは前述の通りその描かれ方にも大きな相違があるのですが、他にも大きな差があります。主人公が異なるのです。「三国志」では魏の曹操が、「三国志演義」では蜀の劉備が主人公として描かれています。今回はこの2人に焦点を当て、人の理想の姿についてお話ししたいと思います。

 

この曹操劉備ですが、彼らは共に三国志の三国の一角、それぞれ魏と蜀を一代で築き上げた君主です。曹操は単なる1役人から、劉備は貧しいむしろ売りの身からのし上がったのですから、これはもう凄まじいことです。しかし、彼らの辿った道は大きく異なっていました。

 

2人の人生の大きな転換点にして三国志の始まりは黄巾の乱と呼ばれる反乱でした。当時の王朝は政治が腐敗し弱体化、旧来の中央集権体制を自力で維持する力はありませんでした。そこで中華全土で多くの野心溢れる武将たちが立ち上がったのです。その中に彼らの姿もありました。

 

曹操は親族とともに挙兵し順当に手柄を立てて行きます。その後その功を認められて昇進した彼は冷酷なまでのカリスマで臣下を纏め上げ、遂には中国の北半分を占める巨大な帝国に君臨しました。

 

対する劉備関羽張飛の2名と義兄弟の契りを交わし(これが有名な桃園の誓いです)、義勇兵として立ち上がります。しかし、役人でもない彼らはその目覚ましい功績を認められることなく、地方の閑職から果ては浪人の身にまで追いやられます。しかし、それでも劉備の人を惹きつけてやまない人徳のなせる技か、かの諸葛孔明に代表される優秀な人材が彼の元に集まり、遂には中国の南西部に蜀を建国しました。

 

このように、彼らは共に一代で登りつめ、多くの優秀な人材を従えましたが、そこには「カリスマ」と「人徳」という違いがあります。これらは現代でいうところ「リーダーシップ」と言えるでしょう。

 

カリスマはどこまでも冷酷に、その能力で人を判断します。それはその人間の出来不出来を見抜くと同時にその行動をも手中に収めるという事です。例えば、曹操劉備から徐庶という軍師をヘッドハンティングする際、彼は徐庶の母を人質に取ります。これは徐庶という人間が母を裏切れないと確信した上での行動でした。これは情に流される劉備にはできない事です。

 

反面、人徳はどこまでも感情的に、その人格で人を信頼します。それはその人間を信頼すると共に、一人一人に親身になるということでもあります。例えば彼の義兄弟である張飛は酒で失敗しているのですが、その際も過剰に責めることはせず、彼の本心からの謝罪を受け入れています。曹操だったら下手したら殺してます。

 

さて、ご存知の方がほとんどだとは思いますが、私の母校では事あるごとにリーダーシップが云々と言われていました。曰く、リーダーシップを育んで人材育成がなんたらかんたら…。要するに集団をまとめる存在が社会では価値ある存在なので、そうなってね!という事なんでしょうが、この集団のまとめ方は結局のところ「曹操型」と「劉備型」に分かれるでしょう。人の頂点に立つのか?それとも人の中心に立つのか?これはピラミッドにも例えられる人間関係の階層構造という円錐を横から見るのか、それとも上から見るのかという問いでもあります。

 

まぁ、リーダーシップって柄じゃないし、どうでもいいか…と思ったそこのあなた。ところがぎっちょん、そうはいかないのが人間の社会構造の面白い所です。

 

例えば日本のトップは、まぁ総理大臣でも何でもいいんですが、恐らく貴方ではありません。県のトップでもないでしょう。市のトップでもない。しかし、クラスの委員長やら、班長ぐらいにならなった事があるのでは?

 

人間の生み出す社会は階層構造を成しています。小さな集団が寄り集まって大きな集団を形成しているという事です(あるいはその逆とも取れますが)。すなわち、ごく限られた小さな集団に関して言えば、ほとんど全ての人がリーダーシップを取るべき時を迎えることになると言っても過言ではないのです。

 

その時、貴方は人とどう向き合いますか。人の能力を「信」じて「用」いますか。人の人格を「信」じて「頼」みますか。これは単純なようでいて、「2」で述べた通り人間が関係に優劣をつけずにはいられない為に、あらゆる人間関係において問われる事だと思います。どちらが正解なのか、それは私にはわかりません。しかし、これを蔑ろにせず生きる事で人の悩みは減るのではないでしょうか。

 

そんな事を考えた1日でした。

2について。

実はこのタイトルでブログ書き始めるのは2度目です。1度目は終盤まで書いてから、「つまんねぇなこれ…」となったのでやめました。

 

さて、2です。昨日は1についての話の中で、0と1には、つまり「無」と「有」には違いがあるよね〜みたいな話をさらっとしました。しかし、現実では有る・無いという対立よりAである・Bであるという並立の構造もまた多いです。

 

不思議なことに、人間の周囲には対になって現れるものが多いです。

例えば太極図。太極は両儀を生じ、両儀四象を生じ、四象八卦を生ずと言うアレです。…ピンときませんか?日向ネジ八卦六十四掌する時に足元に出るアレです。魔理沙八卦炉の真ん中に書かれてるアレです。小学生の男の子が大好きな白と黒の勾玉が合わさっているようなアレです。

あの太極図は太極という全ての始まりから陰と陽の二つに分かれた、という事を示しています。これらは対になっているという事ですね。

 

そもそも、人間自身も対の多い生き物です。目、耳、腕、足、肺に腎臓に右脳と左脳。一つしかない器官を除けば、そのほとんどが対を成しています。

 

さらに、歴史も二つに割れる事が多いです。例えば東西冷戦は資本主義と共産主義の二つに世界が分かれました。関ヶ原の戦いも日本を東西に分かれましたし、アメリカでは南北戦争という形で争いました。

 

こうして考えると、人間は物事を二つに分けるのが好きなのかもしれませんね。私と貴方、味方と敵。何もかも二つに分類してしまおうというのは、その善悪はともかくとして人間の癖なのかもしれません。あっ、善悪もそうですね。

 

しかし、悲しい事に人間は二つに分けるのと同じくらい、2つに優劣を付けるのが好きです。先ほどの歴史の例を省みるまでもありません。機動戦士ガンダムUCのセリフを借りれば「出自の違うシステムは互いを認められない」というやつですが、主義主張に限らず「対」は元来並列でありながらそれを良しとしない性質を持ちます。

資本主義と共産主義

資本家と労働者。

白人と有色人種。

先進国と発展途上国

男性と女性。

人間は、その多くが「自分と違う」存在に嫌悪感を抱く不寛容な生物なのかもしれません。

 

しかし、それは人間が地球上の頂点、すなわち霊長であるが故の傲慢な矛盾なのではないでしょうか。独りでは居たくない。みんなの中の誰かでいたい。でも、本当の意味でみんなが同じでは耐えられない。俺たちとお前らは違うんだ。それらはあくまで人間の内輪揉めに過ぎません。もし、人間全てを合計してようやく釣り合う他者が現れたら?

 

それが宇宙人であるか、それともAIであるか、はたまた明確に進歩を遂げ、次のステージに進んだ人類自身かは分かりません。しかし、さながらビックバンにより無数に広がった物質が一塊の惑星になるように、無数の対が1つになる日が来るとしたらそれはとても面白そうですね。

 

そんな事を考えた1日でした。